2009年12月22日火曜日

【その他雑記】 似て蝶


G線上のアリア




自慰専用の溜まり場

2009年12月19日土曜日

【その他雑記】 対照的なふたつの『今夜はブギーバック』



ソウルセットとハルカリの『今夜はブギーバック』。

そういう90年代懐古趣味はもういいよ、なんて思っていたのだけど・・・

実際に曲を聴いてみると、めちゃくちゃイイじゃないか!

・・・そんなわけでこの曲、もう今年も終わろうというのに、いまだ飽きることなく聴き続けている。

何がイイって、ラップをばっさり削ったところがイイ。

ぼくの安易な考えでは、ハルカリがラップをやって俊美がボーカルをやりそうだな、なんて予想していたのだが・・・

オザケンの不在を、ハルカリで回避する。

なるほど、そっちか!と思った。

※※※








いっぽうのTHE HELLO WORKSバージョン。

こちらは対照的に、オザケンの不在に真正面から立ち向かう。

オザケンの不在を埋めるがごとく、スチャのラップが男臭くなっている。

過去から逃げずに、歩き続ける男たちの姿。








とくにANIが「コピペッ!」と言い放つ瞬間、ぼくはいつも爆笑しながら泣きそうになる。

なぜって、ぼくは過去から逃げてばかりだから・・・

2009年12月10日木曜日

【その他雑記】 知らないおじさんの顔

「月曜JUNK・伊集院光深夜の馬鹿力」(TBSラジオ)に、空脳アワーというコーナーがある。
俺の脳みそ、どうかしてる!という体験を募集するコーナーだ。

随分前のことだが、そのコーナーで衝撃的な投稿が紹介されていた。

※※※

投稿者は、人の顔を思い出すのがどうも苦手だという。
名前と顔が、頭の中でなかなかリンクしてくれない。

苦心の末、なんとか「自分なりの思い出し方」を編み出したそうだ。

まず最初に、特定の人物の顔を思い浮かべる。
その人物の顔をベースにして、「ああでもない、こうでもない」とパーツを変化させる。
そうやって、思い出そうとしている人の顔に近づけていく。

つまり、投稿者は、人の顔を思い出そうとするたび、「ベースの顔」をまず頭に思い浮かべるのである。
こうしたことを繰り返してきたせいで、「ベースの顔」の記憶は、投稿者の脳にかなり鮮明に刻み込まれている。

その顔は、あるおじさんの顔なのだそうだ。

しかし、投稿者は、そのおじさんとまったく面識がないのだという。

※※※

・・・うーん、なんなんだろう。

あらゆる感想を拒む怪エピソードである。

2009年12月8日火曜日

【その他雑記】 お手上げ

藤永茂氏のブログ『私の闇の奥』より引用。
 なぜ私のような素人の予想が当って、有力メディアの有名論客の論説がもたもたと不明瞭なのか? それは、彼等の属する主流マスコミ機構が、始めから、真 実から“偏向”しているからであり、私の予想が当るのは、主要偏向メディアより信頼の置けそうな、そして、一般には“偏向論客”と看做されている人々の発 言に、注意深く耳を傾けるからです。(2009・12・02
 ・・・なにがほんとうなのか、俺なんかには全くわからないよ。

2009年12月6日日曜日

【その他雑記】 出世する男はここが違う

「安住伸一郎の日曜天国」(TBSラジオ)のポッドキャストを聴いていたら、すごい回を見つけた。

「俺の塩」という回である。

※※※

安住アナの楽しみは、入浴しながらの読書だそうだ。

時間をかけて湯船に浸かる。
そのため、手元の洗面器(※読書台の代わり)には、結構な量の汗が滴ることになる。

それを見た安住アナは考えた。

「この汗を集めて、塩が採れないだろうか?」

※※※

・・・安住アナの挑戦が始まった。

製塩に関する文献を調べ、採取すべき汗の量を推理する。

どうやら、相当な量の汗が必要らしい。
かなり高いハードルだ。

これをクリアするため、安住アナは苛酷な長時間入浴を敢行する。
ただでさえ多忙だから、自由時間のほとんどを入浴にあてることになる。

それだけでも凄いのだが、安住アナはさらにその先を行く。

なんと、自らを「食品メーカー兼食材」になぞらえ、「食の安全」をも追求し始めるのだ。

※※※

出世する男とは、かくも凄まじい執念を抱えているものなのか・・・

とにかく、ポッドキャストを直接聴いて、安住アナの狂気を体感して頂きたい。

安住さん、どうかしてるよ!(いい意味で)

【その他雑記】 恋愛感情の正体は「免疫系のザワザワ」?

きのうの「あべちゃんトシ坊・こりない二人」(RKBラジオ)のひとコマ。

この日の番組のテーマは、「別れる」。
離婚に関して、リスナーのメッセージを紹介しながら、各界の専門家に電話をつないで話を聞いていく、という構成。
パーソナリティの二人は、いずれもバツイチ。そのせいか、いつにもましてディープな話が続く(笑)。

中でも、製薬会社(だったかな?)の研究員との電話で出てきた話が、とびきり面白かった。

なんでも、恋愛感情の正体は、人体の免疫系における「異物に対する反応」なのだそうだ・・・!

※※※

人体は、生きていくのに必要な物質を、外界から取り入れる。
ただ、その物質は、人体からすると「異物」である。
取り入れるべき「異物」と、排除すべき「異物」を選別しなければならない。
そのために働くのが免疫系だ。

で、このように外界から「異物」を取り入れるというのは、実は恋愛についても同じことなのだそうだ。

つまり、恋愛というものを生物学的な観点から表現すると、次のようにいえる。

〈自分と異なる生き物(=恋人)の身体から分泌される物質(フェロモンやら、体液やら・・・)を、それが「異物」であるにもかかわらず、本能的に欲すること〉

そう。恋愛は、「免疫系の活動」として説明することが出来るのだ。

そして、恋人という「異物」を取り入れるべきか排除すべきか、免疫系が「ザワザワ」している状態。
それこそが、あの何ともいえず「ザワザワ」する恋愛感情の正体なんだそうだ。

※※※

さらに面白いのが、恋愛感情が冷めていく理由も、「免疫系」という観点から説明できるらしいのだ。

免疫系を司るのは、「骨髄液」なのだという。
そして、この「骨髄液」は、7年サイクルですっかり入れ替わってしまうのだという。

このように骨髄液が入れ替わるというのは、一体どういうことか。
それは、免疫系がすっかり「更新」されてしまうということらしい。

たとえば、恋人とめでたく結婚し、付き合い始めてから7年が経過したとする。
7年が経過したということは、骨髄液がすっかり入れ替わり、免疫系が「更新」されたということだ。

それはつまり、こういうことだ。

付き合い始めた当初の免疫系は、恋人が「取り入れてもよい異物」なのか「排除すべき異物」なのか迷って、「ザワザワ」していた。
しかし、7年が経過して「更新」された免疫系は、恋人を完全に「取り入れてもよい異物」と判断するようになる。

どんなにザワザワしていた免疫系も、7年が経過すると、すっかり落ち着いてしまう。
言い換えると、「免疫系のザワザワ」であるところの恋愛感情は、7年が経過することによって、ものの見事に冷め切ってしまうのである。

それどころか、あの頃は「免疫系のザワザワ」のおかげで「魅力的な異物」に見えていた恋人が、7年たつと「ただの異物」でしかなくなってしまう・・・!!(泣)

※※※

・・・まあ、そうならないように、結婚後は精神的な結びつきを大切にしましょうね、というオチだったのだけれど。

恋愛と結婚は、科学的に見てもまったくの別物である。というお話でした。

2009年12月4日金曜日

【その他雑記】 矢沢・長渕・尾崎

きのうの「木曜JUNK・アンタッチャブルのシカゴマンゴ」(TBSラジオ)でのひとコマ。

長渕剛のコンサートに行った、という話をする柴田。
対して、長渕を斜めから見ている山崎は、要所要所でからかいに入る。

そんな山崎に対して、いかに長渕が素晴らしいかを語る柴田。こんな良い曲があるん

だぞと歌い始める。
しかし、ファンを自称する割には、歌詞やメロディがすんなり出てこない。

すると山崎が、「ああ、それってこういう曲でしょ」と難なく歌い上げる。

「なんでお前のほうが詳しいんだよ(笑)」と柴田。
「俺だってぜんぜん聴いてないわけじゃないからね」と山崎。

「そうね。長渕は男だったら一度は通る道だからね」と柴田。
それに対する山崎の返しがおもしろかった。

「うん。そしてやがて離れていく、っていうね(笑)」

※※※

そういえば、リリー・フランキーがこんなことを言っているのを読んだことがある。

「矢沢・長渕・尾崎を素直に受け入れることが出来るようになったら、男は楽になれる」

※※※

矢沢・長渕・尾崎。

かつてナンシー関は、「日本人はヤンキーとファンシーの呪縛から逃れられない」と喝破

した。
ここでいう「ヤンキー」的なるものを一身に背負っているのが、他でもない、「矢沢・長渕

・尾崎」だ。

日本男子は、誰も「矢沢・長渕・尾崎」を避けては通れない。
「男だったら一度は通る道」なのは確かだ。

しかし、事態はそう簡単ではない。
なぜなら、多くの者がそこから「やがて離れていく」ということも、また事実だからだ。

「矢沢・長渕・尾崎」のファンの中には、初めからずっと同じテンションでファンであり続け

ているひとたちもいるだろう。
しかし、「一度離れて、また戻ってきたひと」というのも、かなりの割合でいるのだと思う。

・・・「矢沢・長渕・尾崎」をめぐって、行ったり来たりを繰り返す。
それが、日本男子の自我のあり方の、偽らざる実態なのではないだろうか?

2009年12月3日木曜日

【その他雑記】 おぎやはぎのおそろしさ

この間、「火曜JUNK ZERO・おぎやはぎのめがねびいき」(TBSラジオ)を聴いていたときのこと。

あるある系のコーナーで、こんなネタが紹介されていた。

〈芸人がパーソナリティのラジオ番組では、「うちの番組のリスナーはレベルが高い」ということをよく言う〉

これに対して、おぎやはぎは「そうそうそう、よく言うよね」「あれ何なんだろうね、ははは」と軽く流していた。

これを聴いて、ぼくは思わず唸ってしまった。

※※※

深夜ラジオを支えるものは、ある種のコミュニティ感覚だと思う。

なんというか、「バーチャルな身内感覚」とでもいえばいいのだろうか。
うまくいっている深夜ラジオには必ずその感覚がある。

テレビではあまり語らない本音を電波に乗せるパーソナリティ。
それに共感したリスナーは、番組に強い思い入れを抱くようになる。

そこには、テレビとは違う手触りの、深夜ラジオ独特の「リアル」がある。

とはいえ、もちろん面と向かって直接話しているわけではない以上、それを正真正銘の「リアル」ということはできない。
そこには、番組を成立させるための「ウソ」が、多少なりとも含まれている。

パーソナリティは、何の面識も無い不特定多数のリスナーに対して、さも友達に話しかけるような口調でトークを展開させる。
それは、意地悪な言い方をするなら、「身内感覚」の捏造だ。

・・・べつに、ラジオの偽善をことさらに暴きたてようというのではない。
捏造といったって、パーソナリティは自分の身を削るようなトークをしているのだ。
そこに「リアル」があるのは間違いない。
ただ、それでも「100%のリアル」というのはあり得ないのだろう、ということだ。

もちろん、ラジオに限らず、あらゆる人間関係において、「100%のリアル」はあり得ない。
ほんの少し「ウソ」を混ぜることで、はじめて人間関係は動き出す。

その「ウソ」というのが、深夜ラジオの場合には、「捏造された身内感覚」だということになるのだろう。
そういう話だ。

※※※

で、その「身内感覚の捏造」がもっともよく露見するのは、パーソナリティが「いや~、うちのリスナーはやっぱりレベル高いね!!」とうれしそうに言う瞬間なのである。

もちろん、パーソナリティとしても、まるっきりウソを言っているわけではないだろう。
事実、リスナーの投稿のレベルは高いのだろう。

とはいえ、何の面識もない不特定多数の人間を、こうして「うちのリスナー」と身内であるかのように呼ぶことには、ほんのちょっぴりだけれど、しかし決定的な「ウソ」が混じっている。

それは、深夜ラジオの「タブー」といってもいいかもしれない。

※※※

そう考えていくと、最初に紹介したおぎやはぎの番組の一幕が、とてもおそろしいタブー破りに思えてくる。

そしてもっとおそろしいのは、このタブー破りを、おぎやはぎは「単なるあるあるネタ」として軽く消化したということだ。

※※※

おぎやはぎには、いったいどんな景色が見えているのだろうか?

2009年11月21日土曜日

【その他雑記】 電気グルーヴ『Upside Down』PV directed by 田中秀幸



■これを閉塞と見るか?解放と見るか?

自室に設置したwebカメラで、自らのダンスを撮影する女の子たち。みんな、おなじ曲で踊っている。

ともすると「ネット空間に自閉する若者」「グローバル化社会における画一化」なんていう文脈でカンタンにまとめられてしまいそうな映像だ。

しかし、当の女の子たちの表情はとても自然だ。

みんな、気負うことなく自分のダンスを楽しんでいる。
ゆるく踊る子もいれば、激しく踊る子もいる。

ひとりひとり異なるグルーヴが、次々と切り替わっていく。
そこには、「人間の肉体の差異」を素朴に肯定するかのような雰囲気が漂ってくる。

この雰囲気が、たまたま再読していた『ジオラマ論』(by伊藤俊治)に収録してある解説(by椹木野衣)の一節とリンクする気がしたので、以下に引用する。

今後、「電子の森」がいっそうの発展を迎えることが火を見るよりも明らかな以上、私たちの身体の所在はますますうつろなものとなっていくにちがいない。あらかじめ保証された自然の所産としての身体などは、そのような電子の森にあっては、真っ先にシミュレートされ、現実の座を失ってしまうだろう。肝心なのは、電子の森の模倣能力や計算能力と限りなく相似であるにもかかわらず、最後の一線においてしか見えてこない、模倣も計算もまったく不可能な特異点を、しかもあくまでなまなましい身体として峻別することができるか否かということだろう。
(ちくま学芸文庫版p382)

この文章は、1996年時点のものである。
ここでいう「電子の森」とは、当時進行中だったCGの大発展を見越しての表現である。
2009年現在の、CGにも飽きてしまったぼくたちとは違う視点で書かれた文章であることに留意しなければならない。

つまり、現在のぼくたちは、ここでいう「電子の森」にすっかり包囲され尽くしており、しかもそれが完全な日常と化している状況にある。
(それはすなわち、自らの姿をwebカメラで撮影してネットにアップすることが当たり前となっている状況である。1996年当時における、CGの精密度を映像フレーム内でうんぬんするような次元など、とうに通り越している。)

そんな中で、このPVがとてもさりげなく、しかし確実に、「模倣も計算もまったく不可能な特異点」を楽しげに提示して見せたことは、ものすごく重要な事件だと思うのだが、どうだろう。

2009年11月9日月曜日

【その他雑記】 渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)

本書の著者である渡辺京二氏は、ぼくにとっては「予備校のセンセイ」である。
かつてぼくが浪人生だった頃、通っていた予備校で現代国語の講師をしていたのが、渡辺氏だった。
当時、渡辺氏は69歳。血色のよい白髪の好々爺、という印象だった。
結構ミモフタもないことを言って、教室の笑いを取っていた覚えがある。
「満員電車に乗ってね、すぐ隣に若い女性がいたりするとさ。もちろんそんなことはしないよ。絶対にしないのだけれど、・・・でも、触りたくなるのは確かなんだよなあ」
もちろん何の脈絡もなくこんな話をしたわけではなくて、渡辺氏は「実感」というものの大切さを冗談交じりに語っていたのだ。

話は飛ぶが、日本において「思想」や「哲学」といった言葉は、「実感を伴わない言葉」と同義なのではないか。そう思うことがある。
要は、「ホンネとタテマエ」といった、よくある日本人論である。
日本において、なにか「言論」を発信しようと思うと、それはどうしても「実感」から乖離したものになってしまう。
なぜかはよく分からないが、どうしても「そうなってしまう」のである。

渡辺氏が日本の言論界から距離をおいているのは、どうもそのあたりに理由がある気がする。

本書において渡辺氏がまとめ上げた外国人の手記は、いずれも彼らの「実感」をつづったものだ。
日本において「実感」は、「言論」として扱われない。
それでも渡辺氏は、そんなことはお構いなしに、「彼らがそういう「実感」を持ったのは確かなんだからさ」と、この大著をまとめ上げた。
こうして「実感を伴った言葉」によって編み上げられた本書は、読む者を強くひきつける。
その言葉の魅力は、前述した渡辺氏の冗談のチャーミングさに通ずるように思う。
事実、ぼくは本書を読みながら、何度となく笑った。

ただ、注意しなければならないのは、本書において語られる「実感」とは、とっくに滅んでしまった文明によってもたらされた「実感」だ、ということである。
つまり、その「実感」には、ぼくたちはどうやったって手が届かないのだ。
もっとも著者である渡辺氏がそれを自覚していないはずなどなく、そのことは本書のタイトルに「逝きし」という完了形の語句が冠せられていることからして自明である。

本書に描かれた古き日本を、これからの日本のあるべき姿の参考にする・・・そんな発想は、本書が執筆された意図とは真逆のところにあるというべきだろう。

「私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、一つの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんでくるのだと私はいいたい。そしてさらに、我々の近代の意味は、そのような文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明かせないだろうといいたい。」(本書65ページ)

すでに滅んでしまった徳川文明は、本書に挙げられた数々の「実感」をもたらした。
では、ぼくたちがいま現在生きているこの文明は、いったいいかなる「実感」をもたらしているのか?
そのことを考えるヒントとしてこそ、本書の存在意義がある。

最後に、本書最終章「心の垣根」の、『東海道中膝栗毛』に見られる「明るいニヒリズム」を参照しながら述べられる箇所を引用しておきたい。

「しかしなお今日のわれわれは、この物語のユーモアに不気味なもの、何か胸を悪くするようなものを感じる。それはわれわれがおのれという存在、したがって他者をも含むわれわれという存在に、個としてのたしかな証明を求めるようになったから、換言すれば西欧近代のヒューマニズムの洗礼を受けたからである。むろん今日このヒューマニズムは、世界を固定化してきた価値観として十字砲火を浴びつつある。にもかかわらず、われわれは生きるという感覚において、ヒューマニズム以前へ引き返すことは出来ない。われわれは弥次郎兵衛・喜多八のように生きることは出来ないし、またそう生きたいとも願わないだろう。
「おのれという存在に確かな個を感じるというのは、心の垣根が高くなるということだった。(中略)・・・エドウィン・アーノルドのように、日本の庶民世界ののどかさ気楽さにぞっこん惚れこんだ人は、西欧的な心の垣根の高さに疲れた人だった。しかし、心の垣根は人を疲れさせるだけではなかった。それが高いということは、個であることによって、感情と思考と表現を、人間の能力に許される限度まで深め飛躍させうることだった。オールコックやブスケは、そういう個の世界が可能ならしめる精神的展開がこの国には欠けていると感じたのである。」(本書575~576ページ)

本書は、ある意味とても残酷な本だともいえよう。
過ぎ去った時は、二度と戻らないのである。

2009年11月3日火曜日

【その他雑記】 マイケル・ジャクソンに関して思うこと

マイケルの例の映画『This Is It』が好評である。

生前のマイケルに興味の無かった人々が、この映画を観てマイケルの偉大さを初めて知った、という。

ひょっとすると、僕たちは今、「ポップスター」が「神」になる過程に立ち会っているのかもしれない。

※※※

僕たちは、マイケルの死とほぼ時を同じくして、忌野清志郎というもうひとりの偉大な「ポップスター」を失っている。

しかし、清志郎という「ポップスター」は、その死を経ても、決して「神」になることはないと思う。清志郎の場合は、ぼくたちの記憶の中に、いつまでも生前の姿のままで残り続けるだろう。

これに対して、マイケル・ジャクソンという「ポップスター」の場合は、その死後、生前とは明らかに違う姿、すなわち「神」になってぼくたちの前に再臨しようとしているように見える。

※※※

もしかすると、清志郎は、完全な「ポップスター」にはなりきれない存在だったのかもしれない。
「ポップスター」である前に、ひとりのブルース・シンガーだった。
彼は、ブルースを手放さなかった。それなのに「ポップスター」でもあり続けた。その両面性に、清志郎の壮絶さがあるのかもしれない。

対して、生前のマイケルは、泣く子も黙る完全な「ポップスター」だった。
マイケルは、あえてブルースに背を向けた。
その姿勢が、逆説的にマイケル固有のブルースでもあったのだが・・・

※※※

こんな比喩はどうだろう。
地べたを這い続けた清志郎と、中空を漂い続けたマイケル。

しかし、二人とも、一貫して「愛」を歌い続けた。

この世界に生きながら、「愛」を歌うこと。
そこには、ただならぬ軋轢が生まれる。

その軋轢こそが、「ポップ」なのではないか。
それは、ただのラブ&ピースなんかじゃ決してない。

※※※

マイケルは死んだ。
彼はもう、「愛」を歌うことの軋轢に苦しまなくていい。
純粋に、彼が歌う「愛」だけが、世界に広がっていく。

ただ、それはもはや、「ポップ」ではない。
もしかすると、「神」というのは、「ポップ」の剥製なのかもしれない。

2009年10月29日木曜日

【映画総論】 映画館に行かないのもいいもんですよ

■映画「館」料金は下がらない

映画料金をこれ以上下げることは出来ない、というのは動かしがたい現実なのだろう。

1800円でもぎりぎりのラインらしい。また、値下げ即集客増というわけでもないらしい。)

そうすると、

映画「館」で映画を見るためには、現在の水準の対価を支払わなければならない。

という事態は、この先も受け入れていくほかないのだろう。

■「館」は高級品、と割り切ったほうがいい

とはいえ、客からすれば割高感がある、というのも動かしがたい事実である。

この開きは、この先埋まることはないだろう。

だから、そこを埋めようとしても仕方ない。
 「映画料金高え」「うっせ、仕方ねんだよ」式の論争は、不毛でしかない。(いや、ほんと反省してます・・・

・・・なら、いっそのこと、こういう認識で割り切ったほうがいいんじゃないか?

「館」に行くのは、いまや「たまの贅沢」なのである。

「たまの贅沢」なのだから、現在の料金だって妥当(むしろ安いくらい)なのだ。
「たまの贅沢」を日常的にしようとするから、割高に感じるのだ。

※そう考えると、たとえばTV局出資の映画というのは、TVを使って全国的な祭りを仕掛け、視聴者に「その祭りに参加する」という「たまの贅沢」を提供しているものであるから、いまの「館」のあり方に即したまっとうな商売なのだろうなあ・・・。

■「映画は映画館で」は逆宣伝じゃねえの?

で、思うのだけれど、

「館」に行くことは、いまや「たまの贅沢」であって、これを日常的に継続しようとすると生活のどこかに無理が生じる。
(※割引を利用すればそんなことないよ、と言われるかもしれないが、割引をいちいちチェックすること自体「無理してる」んじゃないでしょうか?? これを「無理」と思わない方は、それだけで映画愛の深い方といえるのでありまして・・・) ←と、「館」に行ってたころの自分を褒めてみる

なのに、「館」で見ないと映画じゃない、なんてことを言い始めると・・・

「映画」そのものが「たまの贅沢」になってしまう。
「映画」を日常的に楽しむことが、ますます遠ざかってしまう。


日本で日常的に映画を楽しむには、レンタル屋を使うのが現実的な選択だ。
そこを無視して、無邪気に「映画は映画館で見ないと~」なんて吹聴して回るのは、映画を日常的に楽しむこと自体を否定するに等しい。
ますます映画から人を遠ざけてしまう。

・・・これって、「館」の中の人からしても、決して歓迎すべき事態ではないのでは?

■だからDVDで見てればよかとですよ

どうやら、「館」にはテーマパーク的な興奮が求められている模様
だったら、「館」はそういった作品に特化して商売すればいいんじゃないでしょうか。

ただ、「映画」そのものが好きな人間としては、そうじゃない作品も見たい。

で、そういう非テーマパーク的作品に関しては、DVDで見てればいいじゃないかと。

幸い、アメリカの「館」はテーマパークではない模様
したがって、レンタル屋には、アメリカで作られた「非テーマパーク的作品」がたんまりある。

(あと、レンタル屋には、日本映画が本当の意味で大衆娯楽だった時代(「館」がテーマパークでなくてよかった時代)の作品もたくさんありますしね・・・)

それを見てればすむ話じゃないかと。
「館」で見なくても、映画は映画なのだから・・・

 映画は、「館」の外でも見れます。
(厳密には、日本の「館」がつぶれてしまうと、国産映画の新作は「館」の外でも見れないことになってしまうが、ぼくはべつにそれで構わないと思っているw

あとのことは、「館」の中の人にまかせることにしましょう・・・

※あ。 「館」の中の人たちは、いっそのこと商売をブルジョア向けに割り切ってしまえばいいんじゃないですか? 「たまの贅沢」どころじゃなくて。 料金も上げられていいこと尽くめですよ。 DVDしか見れない俺みたいな貧乏人は無視してさ(笑)

2009年10月25日日曜日

【映画総論】 驚愕・・・

こちらのブログさんの記事は、「映画の本質」をきわめて的確に表現しているのではないか?

凡百の映画評論家が束になってもかなわない。

・・・ぼくは本気で言っているのだ。

【映画各論】 『96時間』が何故ヒットしたのか分からない(苦笑) 【ネタバレ注意】



■この映画のつまらないところ・・・「父と娘の緊張関係が中途半端」

ぼくはこの映画を見て、正直つまらないと思った。

で、その後色々と考えてみると、ぼくがこの映画をつまらないと思った理由を、「ある一点」に集約できることがわかった。

それは、「父が娘のアメリカ旅行を許す・許さない」のくだりである。

①父は当初、娘のアメリカ行きを許さなかった。アメリカ行きを拒まれた娘は、涙を浮かべて父を罵る。それでも父は許さない。
②しかしその後、父は悩んだ挙句、条件付きで娘のアメリカ行きを許すことにした。喜ぶ娘は満面の笑みを浮かべて父に抱きつく。

・・・なんでそうカンタンに仲直りするんだ?(苦笑)

■『96時間』という映画の中にあっては、世界は「父が娘に必要とされる/されない」のいずれかでしかない

この映画における物語世界。
それは、「父が娘に必要とされる/されない」の二項対立で構成される世界である。
この映画の世界にあっては、リーアム・ニーソンが娘に必要とされるか否かだけがすべてなのである。

そして、毎度申し上げているように、映画のような「直線タイプの物語」にあっては、「その物語世界の変容をいかに説得力をもって描くか」によって、作品の価値が決まる。ぼくはそう考えている。(こちらの記事をご参照ください)

その考え方でいくと、この『96時間』という映画の場合は、「娘に必要とされない世界」が「娘に必要とされる世界」に変容していく様子を描くことになる。

■にもかかわらず「娘に必要とされない世界」の描き方が中途半端

なのに、映画全編を通して、父はそれほど娘に嫌われていない・・・(苦笑)
最初から、娘は、父のことがわりと好きなのである。

そういうことでは、リーアム・ニーソンがいくら人身売買組織を痛めつけたところで、物語世界はさほど変容しない。
リーアム・ニーソンの好演にもかかわらず、見ているこちらの感情はさほど動かされない。

■そこでぼくから提案です

せめて、娘がアメリカに旅立つ際、父娘に仲直りさせずにおいた方がよかったのではないか?

娘に徹底的に嫌われたリーアム・ニーソンが、「娘に必要とされない世界」のどん底で絶望する。
そこへ、娘が人身売買組織にさらわれる。
「・・・俺の出番だ!!」
とたんに生き生きし始めるリーアム・ニーソン。
彼は「娘に必要とされる世界」で無敵の活躍を見せる・・・

このように、「物語世界の変容」を鮮明にしておけば、リーアム・ニーソンのスティーブン・セガールばりの無敵っぷりに、それなりのカタルシスが伴ったのではないか?

■しかし現実にはこの作品はヒットしたのです

・・・とはいえ、実際にはこの作品はヒットした。
いくらぼくがこの作品のカタルシス不足を追及したところで、現実には多くの観客に好評だったのである。

多くの観客は、この作品にしっかりカタルシスを感じたのである。

ぼくのツボがずれてるのかなぁ・・・

2009年10月23日金曜日

【映画総論】 あらゆる場所に「物語」が・・・

加藤夏希の件のいったい何が「綺麗」か?

ぼくは前回のエントリーで、加藤夏希をめぐる「物語」の終結を指して、「あまりに綺麗だ」と評した。
これからその真意を詳しく述べてみたい。

■「オクテな美女」の物語

まず、確認しておきたいのは、これまで我々が加藤夏希に対して抱いてきたイメージである。
それは、「あまり男性経験がない」というものだ。
彼女自身、TVにて恋愛が得意でない旨の発言をしているし、アニメオタクであると公言してはばからないことからすると、自らそうした「オクテキャラ」のイメージを広めようとしていた節もある。
それが真実か否かはどうでもよい。
我々はTV画面を通して、「加藤夏希は男性経験に乏しい」という「物語世界」を共有していた。大事なのはそれだけである。
(※参考記事:「ロックンロールはウソの共有」by『お笑い芸人のちょっとヒヒ話』さん

次に問題となるのが、あるラジオ番組における「包茎全肯定発言」だ。
この発言は、先に見た「加藤夏希は男性経験に乏しい」という「物語世界」における、新たな構成要素となった。
すなわち、「加藤夏希の数少ない男性経験の中には、包茎男子しか登場しない。」という新たなエピソードを我々に提供してくれたのである。

この時点では、主人公はまだ加藤夏希である。
加藤夏希という「オクテな美女」の物語である。

■それが「包茎男」の物語へと変容した

そこへ今回、新たな登場人物が現れた。
「加藤夏希の元カレであり元マネージャーである男」だ。

彼はこの「物語」のすべてをさらっていった。
彼は、加藤夏希をこの「物語」の主人公の座から引きずり降ろした。

なぜなら、彼の登場により、この物語はもはや加藤夏希の物語ではなくなってしまったからだ。

この「オクテな美女の物語」は、彼の登場によって、「表舞台に一切顔を出していないにもかかわらず包茎であることがばれてしまったオモシロ男の物語」へとすっかり変容してしまったのだ。

彼は、ただ登場するだけで、それまで加藤夏希を中心にまわっていた物語を、すっかり「自分の物語」に変えてしまった。
そのあまりにドラスティックな「物語世界の変化」を、ぼくはとても綺麗だと感じたのである。

■直線タイプの物語の「説得力」

以前、「直線タイプの物語」の価値は、「その物語世界の変容をいかに説得力をもって描くか」にかかっている、という話をした。(※「直線タイプ」ということばの意味なんかも含めて、こちらの記事こちらの記事ご参照くださいm(_ _)m)

その考え方でいくと、今回の加藤夏希をめぐる物語世界の激変は、その「隙のなさ」(すべてのピースが一瞬にして包茎男の方へ向きを変える、という意味での「隙のなさ」)によって、妙な説得力を獲得したといえるだろう。

そして、まさにその「妙な説得力」によって、加藤夏希をめぐる物語は「価値のある物語」(=おもしろい話)として幕を閉じることができたといえるだろう。

■「物語」は映画館の中だけにあるのではない

このように、「物語」は様々な場所に潜んでいて、ふとしたきっかけでその姿を現す。
このことは、ネットによって物語環境がユビキタス化の一途をたどっている現在において、きわめて重要な事実である。

物語鑑賞者は、むしろ映画館の外にこそ眼を向けなければならないのだ。

【その他雑記】 天網恢恢疎にして漏らさず

加藤夏希の件はもちろん笑い事ではなく、彼女には自らの権利を死守して欲しいと思うのだが、

それにしても彼女の「包茎に関する発言」がこのような結末を迎えるとは。。。

ひとつの「物語」がまた、こうして幕を閉じた。

そのあまりの綺麗さに、ぼくはしばし呆然としてしまった。

2009年10月22日木曜日

【その他雑記】 ナタリーから引用

http://natalie.mu/news/show/id/21950

クリスマスシーズンに向けて活躍するコンピレーションアルバム「for winter music Lovers ~テクノポップ・クリスマス」「for winter music Lovers ~ノン・ヴォーカル・クリスマス」が11月11日に2作同時リリースされる。
「テクノポップ・クリスマス」は歴代テクノポップ系アーティストによるウインターソングを集めたコンピ。1976年の未CD化アルバム「シンセサイザーに よる子供のための楽しいクリスマス」に収められた、シンセサイザーの合成音による猫、犬、鳥の鳴き声がメロディを歌う「ジングル・ベル」で幕を開け、細野 晴臣からAira Mitsukiまでの新旧テクノポップアーティストの楽曲が収められる。
そして「ノン・ヴォーカル・クリスマス」は、クリスマスの風景を演出するインスト曲を揃えたコンピ。こちらは音楽ライターの熊谷美広による幅広い選曲で、国内外のクリスマスをテーマにしたフュージョン&クロスオーバー系インストが収録される。

「for winter music Lovers ~テクノポップ・クリスマス」収録曲

01.ジングル・ベル / ザ・エレクトロ・サンタクロース
02.戦場のメリークリスマス / Aira Mitsuki
03.降誕節(賛美歌106番「荒野の果てに」) / 戸川純
04.I wish you a Merry Christmas / 安西史孝
05.東京クリスマス / 電気グルーヴ
06.Christmas in the air / PSY・S
07.ドアを開ければ…… / 高橋幸宏
08.EXIST / SOFT BALLET
09.アフリカのクリスマス / 平沢進 with 島崎和歌子
10.戦場のメリークリスマス / ロジック・システム
11.絵本の中のクリスマス / 野宮真貴
12.スプーン一杯のクリスマス / ムーンライダーズ
13.25 Dec. 1983 / 細野晴臣
14.I wish it could be Christmas everyday / 鈴木さえ子

「for winter music Lovers ~ノン・ヴォーカル・クリスマス」収録曲

01. DEPAPEPE / シュプール
02. グローヴァー・ワシントンJR. / THE CHRISTMAS SONG
03. ケニー・G / LET IT SNOW! LET IT SNOW! LET IT SNOW!
04. T-SQUARE / YOUR CHRISTMAS
05. ラリー・カールトン / WINTER WONDERLAND
06. LYNX / MERRY CHRISTMAS Mr.LAWRENCE
07. 安藤まさひろ&みくりや裕二 / HAPPY CHRISTMAS
08. クリス・ボッティ / I'LL BE HOME FOR CHRISTMAS
09. GONTITI / GREEN CHRISTMAS
10. スティーヴ・ヴァイ / CHRISTMAS TIME IS HERE
11. ピーター・ホワイト / GREENSLEEVES(What Child Is This)
12. タック・アンドレス / RUDOLPH THE RED-NOSED REINDEER
13. 渡辺貞夫 / SONHO DE NATAL(CHRISTMAS DREAM)-Instrumental Version-
14. 鳥山雄司 / AVE MARIA
15. リー・リトナー / WHITE CHRISTMAS

2009年10月21日水曜日

【映画各論】 「エア」芸、そしてフェイク・ドキュメンタリー映画の数々

前回(「【映画総論】 エア」)に続き、エアギターやエアあややにいうところの「エア」について考えるところから始めてみたい。

■「エア」あややは、あややの「ものまね」とどう違うのか


この記事は、コロッケ等による「形態模写」(=「ものまね」)を、「動態模写」にまでヴァージョンアップさせたものが「エア」芸なのだ、と考えているように読める。

この記事の考え方でいくと、「エア」芸とは、「自ら歌うこと」を必要としなくなるまでに完成された「形態模写」(=「ものまね」)だ、ということになる。
つまり、「形態模写」(=「ものまね」)の完成度を極限まで高め、ついに「エア」芸を会得したはるな愛は、もはや「歌」を必要としない境地に達したのだ、と。

だが、ぼくは、「歌わないこと」に、むしろ積極的な意味を感じる。

「歌うことを必要としない」のではなく、「歌わないことを必要とする」のではないかと。
歌わないからこその「エア」芸なのではないか、と。

■「エア」芸はなぜおもしろいのか

「歌う前田健」(=「ものまね」)と、「歌わないはるな愛」(=「エア」芸)。
両者はどうちがうのか。
その間には、「形態模写の完成度の違い」というだけでは説明がつかない、もっと根本的な差異があるのではないか。

この点について前回、「エア」芸は「歌う行為」そのものを抽象的に掬い上げており、そこがおもしろいのではないか、という推測をちらっと書いた。

以下、もうすこし詳しく考えてみる。

ぼくたちが「歌う前田健」を見るとき、彼が「歌うあやや」に見えてきてしまう、その点に面白さを感じる。
「前田健」が「あやや」に見える。すなわち「あやや」の模写である。

これに対して、「歌わないはるな愛」の場合はどうか。
「歌わないはるな愛」が、「歌うあやや」に見えてくる。
これは、単に「はるな愛」が「あやや」に見えてくる、というだけのことなのだろうか。

具体的なレベルで、「はるな愛」が「あやや」を模写している、というだけではない。
もうひとつ、抽象的なレベルで、「歌わない人間」が「歌う人間」に見えてくる、という事態も生じているのではないか。

見る者の認識に、具体的なレベルで「揺さぶり」をかけているのは、前田健もはるな愛も同じである。
しかし、はるな愛の場合は、抽象的なレベルにまで「揺さぶり」をかけているのではないか。

「歌っていない」のに「歌っている」ように見える。
これが、「歌う行為」そのものを抽象的に掬い上げる、ということの意味である。
そしてこの抽象性こそが、「形態模写の完成度の高さ」だけでは説明のつかない、「エア」芸に固有のおもしろさなのだと思う。

■「無への言及」としての「エア」芸

「ものまね」芸では、「コロッケ」が「ちあきなおみ」に見える。あるいは、「前田健」が「あやや」に見える。
こうした「変身」は、「有から有への転換」である。

これに対し「エア」芸では、「ギターが無い」が「ギターが有る」に見える。あるいは、「歌っていない」が「歌っている」に見える。
ここで起きていることは、「無から有への転換」である。

つまり「エア」芸は、「無」に言及することにその本質がある。
実に抽象的な領域において成立する芸だといえる。

思えば、エア=空とは、すなわち無である。
だから、はるな愛の芸が「ものまね」ではなく「エア」と呼ばれていることには、きわめて重要な意味がある。

■フェイク・ドキュメンタリーの興隆 国内編

さて、話は変わるが、映画の世界において、近年「フェイク・ドキュメンタリー(またはモキュメンタリー)」というアプローチが脚光を浴びている。

フェイク・ドキュメンタリーとは、かつて『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』で注目を集めた手法である。
すなわち、ドキュメンタリーのような体裁を装いながら、その実すべてがフィクションとして創作された作品の総称だ。

ただ、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』自体は、あまりすぐれた作品ではなかった。
そのため、フェイク・ドキュメンタリーという手法そのものが取るに足らないものであるかのような誤解を、一般にもたらしてしまった。

それでも、フェイク・ドキュメンタリーがまったく廃れてしまったわけではなかった。

国内では、『放送禁止』というTVシリーズがフジテレビでひっそりと放送され続けた。それが好事家の注目を集め、次第にフェイク・ドキュメンタリーの可能性が再認識されるようになったのだと思う。

そうした下地があってか、『ノロイ』という劇場用作品が作られ、ついには『放送禁止』の劇場版までもが製作されるに至った。
(なお、この辺の事情が作家・貴志祐介によって日経新聞の文化欄に大々的に紹介されたのは、うれしい驚きだった。)

その裏では、『ほんとにあった! 呪いのビデオ』シリーズに代表されるフェイク心霊ビデオ(これをフェイク・ドキュメンタリーと言い切ると怒る人もいるかもしれないが・・・)が絶えず製作され続けたことも無視できない。
(なお、前述の『ノロイ』の監督・白石晃士も、このシリーズの一作の演出を担当している。)

もっとさかのぼれば、Jホラーの源流となった「小中理論」(TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」の「シネマハスラー 呪怨・白い老女」を参照のこと)も、その基礎はフェイクドキュメンタリーの方法論にあったといえるだろう。
(「小中理論」の起源となった作品『邪願霊』はまさにフェイクドキュメンタリーだったし、「小中理論」が応用的に展開された『ほんとにあった怖い話』シリーズは実話モノという点でやはりフェイクドキュメンタリーに近い構造を持っていた。)

■フェイク・ドキュメンタリーの興隆 海外編

さらに、海外に目を向けてみても、フェイク・ドキュメンタリーが再び注目を集めている様子がうかがえる。

記憶に新しいところでは『クローバーフィールド/HAKAISHA(Cloverfield)』が挙げられる。

また、『ディストリクト9(District 9)』『パラノーマル・アクティヴィティ(Paranormal Activity)』といった最新作も日本公開を控えている。
特に『パラノーマル・アクティヴィティ』は、スピルバーグがリメイクを考えたがオリジナルを超えることはできないと断念した、なんて話も伝わってくるほど脚光を浴びているのだ。(ちなみに、『ほんとにあった! 呪いのビデオ』シリーズで目の肥えた日本人を満足させることができるか? という点でも楽しみである。)

あと、変り種では、『宇宙人の解剖(Alien Autopsy)』を挙げることもできるかもしれない。
これは、あの「宇宙人解剖フィルム」が作られた舞台裏を劇映画に仕立てた作品である。フェイクドキュメンタリーではないものの、「現実に存在するフェイクフィルム」を「劇映画という虚構」に封じ込めるという意味で、まるでフェイクドキュメンタリーの虚実を反転させたような構造を持っている。

このように近年の映画界において、国内外を問わず、フェイクドキュメンタリーの方法論が大きな注目を集めているという状況があるのだ。

■「エア芸の発見」と「フェイク・ドキュメンタリーの興隆」のシンクロニシティ

こうして、時期を同じくして「エア芸」と「フェイク・ドキュメンタリー」がにわかに脚光を浴びることになったのは、決して偶然ではないと思う。

フェイク・ドキュメンタリー映画のおもしろさは、物語の虚構性に直接言及するところにある。
個々の物語の「顔」をこえて、「虚構が立ち上がるシステム」そのものに言及することころに、おもしろさがある。

この「虚構が立ち上がるシステム」は、エア芸において言及される「無から有への転換」と同じものなのではないだろうか。

はるな愛の芸においては、「はるな愛があややに見える」のみならず、「歌っていないのに歌っているように見えること」(=無から有への転換)自体がおもしろい。
これは、フェイク・ドキュメンタリー映画において、「個々の物語の展開」のみならず、「まったくの嘘っぱちがドキュメンタリーのように見えること」(=虚構が立ち上がること)自体がおもしろい、ということに酷似していないだろうか。

このような、きわめて抽象的な領域において成立する「おもしろさ」が求められている。
それが、現在の状況なのではないだろうか。
「エア芸」と「フェイク・ドキュメンタリー映画」は、いずれもそのような文脈において求められているのではないだろうか。

■ダイノジが見せる「抽象的な領域」

・・・以上に書いたことは、自分でもいまいち整理できていないので、読んでいただいた方にどれだけ伝わるかは死ぬほど心もとない。クワー(笑)。

そこで、せめて、こうしたことを考えるきっかけとなったソースを最後に挙げておこうと思う。

それは、『お笑い芸人のちょっとヒヒ話』さんの「ロックンロールはウソの共有」というエントリー。

ぼくが「無から有への転換」とか「虚構が立ち上がるシステム」といった言葉で表現しようとしたものは、このエントリーで引用されているダイノジ大谷氏の「ウソの共有」という言葉からぼくがイメージしたものと同じである。

あと、ダイノジのこの芸は、かなり「抽象的な領域」で成立していると思う。


そう、いうまでもないことだが、ダイノジ大地氏はエアギターのマスターなのだった。

2009年10月19日月曜日

【映画総論】 エア

エアギター
それは「空気で出来たギター」を演奏すること。

エアセックス
それは「空気で出来た異性」とセックスすること。

これらを「エア」と形容するのはわかりやすい。
そこに無いものを、まるで有るかのように振舞うのだから。
「裸の王様が着ている服」みたいなものだ。

では、エアあややはどうか。
これのどこに「エア」の要素があるのか。
ふつうのものまねとどう違うのか。

考えられるのは、「自らは歌わない」ところにエア要素があるということである。
そこにいるのは「歌うフリをする人」。なのに、まるでそこに「歌う人」がいるかのように思わせる。
数式にすれば、
「歌うあやや」-「歌うフリをするはるな愛」=「エア」
となるだろうか。

かなりややこしいことになっている。
「歌う美川憲一」-「歌うコロッケ」=「ものまね」 とは、何かが本質的に違う。

たぶん、エアあややにおける「エア」の対象は、「歌う行為」そのものなのだ。
空気で出来た「歌う行為」を見せる芸なのだ。
えらく抽象的な「エア」である。

あと、ここでの「エア」も、相当抽象的なものが対象になっていると思う。

・・・なんでこんな話をしたのかというと、映画にももっと「エア」が欲しいと思うからだ。
「見せる」と「見せない」の間にある、何かもやもやしたものを、もっと表現して欲しい。
CGがつまらないのは、そこに「エア」が足りないからだ。たぶん。

2009年10月18日日曜日

【その他雑記】 すべる話

youtubeで、『バナナマン日村のすべる話』の動画を鑑賞。

涙が出るくらい笑ったのだが、なにがそんなに面白いのかときかれると、どうも説明に窮する。

ただ、たしかなことがひとつある。
本家の『すべらない話』は、話し終わった直後に笑いが来る。
これに対して、『すべる話』の場合は、話し終わった後しばらく「間」があって、その後に笑いが来る。

この「間」が死ぬほど面白いのは、いったいどういうわけなんだろう。

しかもその面白さは、なんだか「暖かい」のだ。
「すべる話を笑う」なんていうと、どこか批評的な冷たい笑いになりそうなものなのに・・・

まったくわからない。
だれかこの謎を解明してくれないだろうか。

2009年10月17日土曜日

【その他雑記】 それでも「生きてるだけで丸儲け」だろう?

ちょ・・・
http://mainichi.jp/select/today/news/20091017k0000e040055000c.html

ちなみに・・・
http://s01.megalodon.jp/2008-0210-2345-47/www.1101.com/suimin/samma/2008-02-06.html
さんま
あの、楽しいことを考えて、
楽しくしようとして、
ダメなときにもそうやって楽しめるって、
ものすごく大事です。
ものすごく大事で、楽です。
糸井
あああ、なるほど。
だって、ハズレもオッケーですもんね。
さんま
そう思うんですよねぇ。
それは、あの、ぼくの経験というか、
さんざん、30何年も、世間やマスコミに
叩かれたり褒められたりをくり返して、
世間というのはこう取るのか、
ということを考えているうちに、
いつの間にかそういうふうに
なってしまったのかもしれませんけど。
糸井
そういうふうに考え続けて、
いろんなものを突き詰めていって、
最後の最後にさんまさんの手元に残る
たった1枚のカードっていうと、
もう、「人生、生きてるだけで丸儲け」
というところに行きますね。
さんま
はい。
糸井
ありゃあ、すごいことばですよねえ。
さんま
いえいえ(笑)。
まあ、でも、けっきょくそこに行きますね。
もう、すべての人が、もうね、
「服一枚着た時点で勝ち」なわけですから。


【映画総論】 如何にして心配するのを止めてTV画面を愛するようになったか

前回のエントリー(【その他雑記】 反省・・・)を踏まえ、改めていろいろ考えてみた。

■ぼくは部外者

結論から言うと、「映画館ビジネスのあり方について、建設的・生産的な提案ができない以上は、とやかく口を挟める立場にはない。」ということに尽きる。
窓口料金をいくらにすべきか、そういったことを言える立場にはないということだ。

なぜなら、ぼくは映画館ビジネスの内実を知らない。
完全な部外者である。
そんな部外者が、憶測でものをいうべきではないからだ。

■ぼくは「駄々をこねる映画好き」でしかなかった

それでもつい憶測で業界批判をしてしまう「映画好き」がいる。(←他人事のように書いてますが、ぼくのことです)

しかし、それは甘えである。
何に甘えているのか。
「映画は映画館で見るべきだ」という信条に甘えているのだ。

「俺は映画が好きだ」

「だから映画館でいい映画を観たい」

「なのに、映画館には、映画好きである俺の眼鏡にかなうマトモな映画がかかっていない」

「映画業界がマトモな商売をしていれば、映画館にはもうちょっとマトモな映画がかかっているはずだ」

「ということは、映画業界はマトモな商売をしていないのだ」

「じゃあ、映画好きであるこの俺が、マトモな商売のやり方を教えてやろう」

・・・要は、駄々をこねているわけである。
映画館が自分のほうを向いていないことに苛立ち、「もっと俺のことを見てくれ!」とぐずっているわけである。(←他人事のように書いてますが、ぼくのことです)

■映画館が「映画好きのための商売」をする義理はない

しかし、当然のことだが、映画業界の人たちは、知力を尽くして必死に商売をしているのである。
「映画館ビジネス」が現在のようなあり方になったのは、その奮闘の結果なのだ。

「映画好き」が現在の「映画館ビジネス」のあり方に不満を持つとしても、だからといって憶測で文句を言うべきではないのだろう。
商売人がいかなる客を選ぶかは自由なのだから・・・

■同じように、映画好きが「映画館の商売を心配する」義理だってない

その反面、客にだって自由はある。
映画館で見るか、TV画面で見るか。それは、客の自由である。

『映画館ブログ』さんは、「映画は、映画館で見るから映画なのだ」とおっしゃる。
TV画面で映画を見ることを全否定するかのような勢いだ。

しかし、ほんとうにそうだろうか?
ぼくの感覚は、「できれば映画館で見るのが望ましい」という程度である。
なるべく映画館で見たいという思いがあるから、映画館ビジネスに言いがかりをつけてしまったわけだけれど(恥)、それでも「映画館で見るから映画だ」とまでは思わない。

べつに映画館で見なくたって、映画は映画だろうと思う。
それどころか、場合によっては、TV画面で見た方が作り手の意図がよりよく理解できることすらあると思う。
(唐突によそ様のブログにリンクさせていただくが、『HALTANの日記』さんの「日本人が「映画か?」「TVか?」など言い争っているあいだに、文明はどんどん発達していく・・・。」とのエントリーに書いてあることは凄く深い。あまりにも深い・・・)

いや、むしろ映画館に対するこだわりは、有害ですらある。
映画館にこだわるからこそ、映画館ビジネスの部外者に過ぎないただの「映画好き」風情が、人様の商売に口出ししたくなってしまうのだから・・・

客にとって大事なのは、映画を見ることだ。
カネが映画館に落ちるかレンタル業者に落ちるかなんてこと、どうでもいい。
そもそも客には、そんなことを心配する義理はどこにもないのだ・・・

そういうわけで、ぼくは心配するのを止めて、TV画面を愛するようになった。
他人は他人。自分は自分である。
カンタンな話だ。
そんなこともわかっていなかったぼくが未熟者だった。

■まとめ

① 映画館に文句を言うのはやめます。申し訳ありませんでした。

② TV画面で見ても映画は映画です。ほっといてください。(笑)

2009年10月16日金曜日

【その他雑記】 反省・・・

誰も読んでいないと思って「映画業界ファック!」みたいなことを書き散らしていたら、実際に映画業界に携わっていた方からやんわりとたしなめられてしまった。
(『映画館ブログ』さんの「映画館で見るから映画なのである」とのエントリー。)

転んでもただじゃ起きないぞ、ということで『映画館ブログ』さんをしばし拝読。

「ただ単に安売りすりゃいいってもんじゃない」との御主張は、相当以前から練りに練られているもののようで、ぼくみたいないち観客にすぎない素人が反論できる隙なんてどこにもなかった。撃沈。

それどころか、「劇場ごと・作品ごと・時間ごとに、値段を変えてみるといいのでは」との御提案(「価格を下げれば売れるようになるのか」)に、当方お恥ずかしながらワクワクしてしまう始末。

そうか。ぼくは窓口料金の「1800円」よりも、むしろ「一律」のほうに噛み付きたかったのかもしれない。

ぼくが映画館に対して抱いている不満は、もちろん「値段の高さ」というのもあるのだが、それ以上に「選択肢の乏しさ」というのが大きい。
そこで「なぜこんなに選択肢が乏しくなってしまったのだろう?」と考えた結果、「①値段が高い⇒②感動やスペクタクルが必要以上に求められる⇒③上映される作品が大作志向になり画一化してしまう」という図式が思い浮かんだ。
で、この図式の始点である「①値段が高い」を是正すれば、しぜんと作品のバラエティが豊かになるのではないか? と考えたのだ。
そうすれば、たとえば日本で異常に敬遠されるコメディ映画だって、劇場でふつうに上映されるようになるのではないか? そんなことを考えたのだった。

しかし、実際に現場で働いている方又は働いておられた方からすると、
「そんなカンタンな話じゃねーよ!」
となるのは当然ですね・・・(すみませんでした)

ただ、一般の観客の視点から言わせていただくと、映画館における作品のバラエティの乏しさは、やはりちょっと我慢できない。
ここのところ、「映画好きの素人による映画業界批判」がよくなされる(ぼくもその流れに便乗してしまいました、ハイ・・・)のは、そういった苛立ちを感じている映画好きが多いからなのだと思う。
もちろん、業界を実際に知っておられる方からすると、決して気持ちのいいものではないと思います。だけど、映画好きがそういった論調になびいてしまうのは、ひとえに現状に対する苛立ちというのがあるからでして・・・(汗)

とはいえ、業界の内情を知らずに、安全な位置から業界を批判するというのは、やはりダメですね。
反省しています。

考えてみれば、映画館に対するこだわりさえ捨ててTSUTAYAに行けば、「選択肢の乏しさ」に対する不満なんて、たちどころに解消されてしまうのであった・・・(←よけい怒られるっつーに)

【映画総論】 映画の「説得力」をめぐって

■映画と連続TVドラマの違い

前回のエントリーで、映像メディアにおける物語は「円環タイプ」と「直線タイプ」の2種類に分類できるのではないか? そして、「円環タイプ」では物語世界の構築が、「直線タイプ」では物語世界の変容が、それぞれ主たるテーマになるのではないか? ということを書いた。
(なお、あらゆる物語が「円環」と「直線」のいずれかに割り切れるのではなく、むしろそれぞれの特徴を兼ね備えた物語もありうる、ということも書きました。物語の構造を解析する上での思考モデル、という程度に考えておいてください)

さて、ぼくたちがふつう「映画を観る」と言う場合、それは「約2時間の映像を通して語られる物語を鑑賞する」ということを意味する。
つまり、「映画を観る」とは、ひとまとまりの映像を初めから終わりまでいちどきに鑑賞することによって一つの物語を理解するという、一回性の直線的な体験である。
だから、そこで語られる物語は、「直線タイプ」の物語ということになる。

ここで注意したいのは、映画における物語が「直線タイプ」なのは、純粋に映画の「発表形態」に起因するものでしかないということだ。
別に、映画が連続TVドラマに比べて格調高いわけでもなんでもない。
連続TVドラマは毎週決まった時間に複数回に分けて放映されるから「円環タイプ」になる。映画はその全部をまとめて一度に上映するから「直線タイプ」になる。
それ以上でも以下でもない。
(さらにいえば、単発のTVドラマは、そこで語られる物語が「直線タイプ」である以上、その本質は劇場映画となんら変わりはないということになる。)

■映画はTVよりも高級?

では、なぜ「連続TVドラマよりも映画のほうが高級だ」というような風潮があるのだろう?
それはたぶん、「円環タイプ」の物語よりも、「直線タイプ」の物語のほうが、「人生の全体像」を表現するのに向いているからなのだと思う。
どういうことかというと、前回のエントリーの最後で少し触れたように、ぼくたちの現実の人生は、①「毎日の繰り返し」というミクロなタイムスケールで見れ ば「円環タイプ」の構造をしているが、それと同時に、②「生まれてから死ぬまで」というマクロなタイムスケールで見れば「直線タイプ」の構造をしている。
つまり、すぐれた「直線タイプ」の物語を鑑賞することは、マクロなタイムスケールでの「人生の全体像」を見通すような感覚をもたらすのである。
そういうわけで、よい映画を観ると、人生をより深く理解する(あるいは、理解したかのような気になる)ことができる。
いやー、映画っていいもんですね。
・・・そんなところなのではないだろうか。
(あと、忘れてならないのは、窓口料金1800円という狂った料金設定!このせいで映画の敷居が不必要に上がってしまっているのが日本の現実。映画たるも の、1800円の投資に見合うだけの感動をもたらすものでなければならない!という・・・。「円環」「直線」うんぬんよりも、むしろこっちのほうが重要か もしれない・苦笑)

ただ、くりかえすが、こうした「円環」と「直線」のちがいは、純粋に発表形態の違いでしかない。
映画とTVのちがいは、その程度のものでしかない。
(さらにいえば、前回のエントリーの最後でも触れたが、すぐれた連続TVドラマは、「円環」を積み重ねた「直線」という構造を描くことが出来る。これは単 に「直線」でしかない映画よりも、はるかにぼくたちの現実の人生に近い。したがって、すぐれた連続TVドラマは、むしろいかなる映画よりもはるかに魅力的 なのだ、ともいえるかもしれない。物語の価値を「人生の疑似体験」に置くのならば・・・)
(なお、前回のエントリーでも対比として挙げた『男はつらいよ』の場合は、「直線」を積み重ねた結果の「円環」であって、上に書いたのとは似て非なるもの である。ぼくたちの現実の人生とは真逆の構造である。とてもグロテスクな世界だといえる。それはそれで魅力的なのだが・・・)

■映画の「価値」は何で決まる?


映画を評価するときのキーワードとして、「リアリティがある」「感情移入できる」「迫真の演技」「人間を描けている」といったような言葉をよく見かける。
こうした言葉に出会うたび、ぼくは違和感を覚える。映画の一面しかとらえていないような気がしてしまうからだ。

たしかに、映画が得意とする「直線タイプ」の物語は、「人生におけるマクロなタイムスケール」になじみやすい。
つまり、映画は、「人生を描くのに適した表現形態」という側面をもっている。
その側面だけに着目するならば、「よい映画=人生を疑似体験できる映画」ということになる。
こうした観点からすれば、前述の「リアリティ」「感情移入」といったキーワードは、たしかに「よい映画」のバロメーターたりうるだろう。

しかし、「直線タイプ」の物語の本質は、人生の箱庭を作ることにあるのではない。
前回のエントリーで触れたように、「物語世界の変容(=主人公の成長・挫折)」を、いかに説得力をもって描くかにあるのだ。
「直線タイプ」の物語にあっては、物語世界の変容こそが観客にカタルシスをもたらす。
そのカタルシスに酔った観客は、場合によっては人生の真実に触れたかのように「錯覚」してしまう。
映画を通して人生に触れた、なんていうのは、錯覚でしかないのだ。
「人生の美しさを描いた映画」の正体なんて、そんなものだと思う。

だいたい、映画が本当に人生の箱庭なのであれば、映画に常日頃触れている映画業界の人たちは、人格的にも立派な人たちでなければならないはずだ。
しかし、どうやらそんなことはないらしい。その証拠が窓口料金1800円。映画会社の人たちが人格者であれば、こんな理不尽を放置するはずがないではないか(笑)

けっきょく、映画の価値は、「物語世界の変容」をいかに説得力をもって描くかによって決まる。
そして、ここでいう「説得力」とは、「リアリティ」「感情移入」などと必ずしもイコールではない。
それが、映画の面白さだ。
リアリティのかけらもない、感情移入のしようがない人物しか出てこない。それでも、妙に強引な「説得力」をもった映画というのは、存在するのだ。

じゃあ、その「説得力」の正体は何か?それは、観客の感情のコントロールである。
これをとことんまで突き詰めたのが、ハリウッドなのだと思う。
ハリウッドが出した答えは、『神話の法則』という本に詳しく書いてある。


一言でいうと、脚本の構成をしっかり考えましょう、ということ。
主人公が直面する困難の数々を、その程度に応じて適切な順序で配置する。あるいは、主人公の仲間や敵となる人物をバランスよく配置する。
そうやって観客の感情を適切に操作していけば、物語のクライマックスである「主人公が直面する最大の危機」において、観客の感情は最高に昂る。
その結果、主人公がこれを乗り越えた(挫折した)場面で、観客は「物語世界の変容」を実感し、大きなカタルシスを感じることが出来るのである。

脚本の構成がしっかりしていれば、「リアリティ」「感情移入」などに頼らずとも、観客にカタルシスをもたらすことが出来る。
それが、映画の「説得力」だ。

2009年10月14日水曜日

【映画総論】 映像メディアにおける物語の「型」というものを自分なりに考えてみた

■映像メディアにおける物語の「型」

自分がこれまで映像メディアにおいて触れてきた「物語」たちを振り返ってみると、そこには一定の「型」というものがあるように思う。なお、ぼくは映画やドラマが確かに好きだけれど、決して幅広い知識があるわけではない。ただ、それでも、自分の狭く偏った体験を振り返ると、そこにはやはり、個々の物語の差異を越えた、共通の「型」があるように思えるのだ。
結論から言うと、「円環タイプ」と「直線タイプ」の二つに分類できると思う。

■円環タイプ

  要するに、一話完結ものの連続TVドラマである。『あぶない刑事』みたいな。あるエピソードが終わっても、次のエピソードが控えている。だから、時間が円環状に流れていく。
このタイプの物語の眼目は、「確固たる物語世界の構築」である。ある設定に基づいて、数々の物語を積み重ねていくことで、その設定(=物語世界)の存在感を確固たるものにしていく。
観客としては、その世界に没入すること自体が快楽となる。『あぶない刑事』でいえば、タカとユージのやりとりを見ることそのものが楽しい、というような感覚。



■直線タイプ

   対してこちらは、一回きりの物語。映画はたいていこちらに属する。TVなら、単発もののスペシャルドラマ。
一回きりなので、円環タイプと違って「物語の積み重ね」ができない。物語が始まり、そして終わる。それっきり。時間は直線状に流れる。
そのため、円環タイプにあった「確固たる物語世界の構築」という楽しさは、直線タイプにあってはどうしても後退する。その代わりに、直線タイプの物語は、「世界が変容していく様子」を見せることで、観客をひきつける。
世界が変容するなんていうと大袈裟に聞こえるが、要は主人公が成長していく(あるいは挫折する)様子を見せて、観客にカタルシスをもたらす、ということである。
円環タイプの主人公は変化しないところに特徴があり、直線タイプの主人公は変化するところに特徴がある。



■なお、一つの物語の中に「円環タイプ」と「直線タイプ」が同居している場合も多々ある

じゃあ、『男はつらいよ』は「円環タイプ」か?「直線タイプ」か?
たぶん、『男はつらいよ』シリーズにおける個々の作品は、やはり「直線タイプ」の物語と考えるべきだと思う。ただ、そこでの主人公は寅さんではなく、マドンナなのだ。マドンナが、寅さんと出会い、変化する。その様子を「直線タイプ」の物語として見せているのだ。
もっとも、『男はつらいよ』シリーズの総体を眺めた場合、そこには「円環タイプ」の物語が浮かび上がってくる。この場合の主人公は、寅さんである。様々なマドンナとの出会いを繰り返し、しかしいつも相変わらずな寅さん。決して変化することのない、「円環タイプ」の主人公である。そして、観客は、正月の映画館でこの変わらない寅さんに会うことを楽しみにしていた、というわけだ。

一方、たとえば『北の国から』は、逆に、個々のエピソードは「円環タイプ」だが、その積み重ねの総体は巨大な「直線タイプ」を形成している、というパターンだと思う。
毎週『北の国から』を見ていた視聴者は、黒板一家が住む富良野を訪ねるような感覚でいたと思う。これは、「円環タイプ」特有の、確固たるものとして構築された物語世界を疑似体験する楽しみである。その一方で、徐々に進んでいく物語の全体を振り返ったとき、少しずつ変化していく登場人物たちの姿に気付く。いったん生じた変化は、もう元には戻らない。ここには確かに、「直線タイプ」の物語の味わいがある。
このように、すぐれた連続TVドラマというのは、「円環タイプ」のエピソードを積み重ねることによって、巨大な「直線タイプ」の物語を語ることにさりげなく成功しているものだと思う。
(そしてそれは、毎日変わり映えのしない「円環タイプ」の日常を積み重ねながらも、それと同時に、徐々に死へ向かって後戻りの出来ない人生という「直線タイプ」のストーリーを歩んでいる、ぼくたち自身の姿の引き写しでもある)

2009年10月12日月曜日

【映画総論】 アート系映画は、「企画系AVみたいなもん」であるべきだ

■「企画モノAV」のまっとうな立ち位置

  ぼくはAVが嫌いじゃないから、レンタル屋で「18禁のれん」をくぐることも少なくない。そこで目にする「企画モノAV」のたたずまいには、何ともいえない愛おしさを感じてしまう。誰のために作られたのかよく分からないタイトルばかりがずらっと並んでいるのを、軽いめまいを覚えながらひとつひとつ眺めるのがたまらなく好きだ。つい時間を忘れてしまう。人の欲望の限りなさよ。


  なんて他人事のような書き方をしたが、かくいう自分も、たまに「企画モノ」を借りることがある。(うっわ、わけわかんねーのばっかだなーw)などと「企画モノ」の棚を眺めていると、期せずしてピンとくるタイトルを見つけてしまうことがあるのだ。
  そんな時ぼくは、「嗚呼、どんな奇天烈な企画モノも、やはりビジネスとして作られているのだなあ・・・」と、思わず遠い目をしてしまう。
  いかにわけのわからないタイトルも、それが商品としてリリースされている以上は、確固たるマーケットの存在を想定しているということなのだから。そして、他ならぬぼくがそのマーケットの存在を証明してしまっているのだから・・・。


  とはいえ、「企画モノ」はどこまでいっても脇役だろう。


  「企画モノ」がビジネスとして成り立つのは、主役の「フツーのAV」がしっかり巨額の金を動かしているからだろう。
  とある男が(あ~、なんかムラムラするな~)と悶々していたとしても、彼がレンタル屋に行けば、たとえば麻美ゆまや穂花みたいな「わかりやすくいい女」が「わかりやすいエロ」を見せてくれるビッグタイトルを、1本2~300円くらいで気軽に借りて、インスタントに欲求不満を解消することが出来る。
  そうした「フツーのAV」のマーケットが確立しているからこそ、その隙間に「わかりにくいエロ」をみせる「企画モノ」のマーケットがかろうじて存在することが出来るのだろう。「フツーのAV」という主役がたくさんのお客を確保しているからこそ、「企画モノ」という脇役がマニアックな商売をできるのだろう。


  さらにいえば、「企画モノ」は、けっして自らをビッグタイトルと吹聴することはない。「企画モノ」は「企画モノ」の棚につつましく収まっている。だから、AVビジネス全体のバランスを乱すことも無い。





■それにひきかえ日本映画界といったら・・・


  かように健全な産業構造を実現しているAV界にくらべて、日本映画界の産業構造のなんと歪つなことか!


  そもそも日本映画界は、「フツーの商売」ができていない。
  
  (なんかひまだなー)という人が映画館に出かけて、わかりやすく面白い(ex.感動する、怖い、笑える、興奮する・・・)「フツーの映画」を、1本(せめて)800円くらいの気軽な値段でみることができる。
  そういうのが、映画界における「フツーの商売」であるはずだ。


  しかし、窓口料金一律1800円という狂った料金設定のせいで、日本のお客はそもそも「気軽に映画を見に行く」ということができずにいる。
  つまり、日本映画界では、「フツーの商売」などまったく成立していない。  
  「わかりやすいフツーの映画」(大きなマーケットを狙うべき映画)がしっかりとお客を確保する、ということが全くできていないのだ。


  このように、大きなマーケットを狙うべき映画が商品として機能していない以上、小さなマーケットを狙うべき「わかりにくい芸術的な映画」が作られる余地などどこにも無いはずだ。
  にもかかわらず、現実には、「わかりにくい芸術的な映画」が当然のように作られ、劇場にかかっている。当たり前のことだが、客なんか入らない。なのに、作り手や自称映画通は、「だから日本の観客はダメなんだ」なんてことを言う・・・。


  ・・・もうめちゃくちゃだよ!!


■もっと悪いことには・・・


  このように、「わかりやすく面白いフツーの映画」を提供するというまともなビジネスをあまりに軽視している日本映画界。
  そのため、商業主義と作家主義がとても醜い形で混ざり合ってしまっている。


  AV界をお手本に考えれば、
 ①わかりやすいコンテンツを安価に提供することで一定規模のマーケットを確保する(商業主義) ・・・フツーのAV

②その余力で小さなマーケットに向けたマニアックなコンテンツを作る(作家主義) ・・・企画モノAV
  というのがコンテンツ産業の健全なあり方であるはずだ。


  しかし、日本映画界では、この①②の順序が無視されている。
  商業主義をないがしろにして、作家主義を前面に押し出す。にもかかわらず、実際の売り方は商業主義(の真似事)であったりする。
  つまり、プロとしての自覚がない。そのために、ビッグバジェットの作品が自主映画まがいの出来だったりする(商業主義と作家主義の悪しき混合!)のだから、イヤになる。



  

2009年10月10日土曜日

【その他雑記】 「アニメ主題歌差し替え」動画

  某動画サイトの「アニメ主題歌差し替えMAD」が、妙に面白いのであります。その中でも、特にぼくの琴線に触れたのは・・・


■「攻殻山田太郎」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3857065
↑ドカベンのOPアニメに、攻殻機動隊SAC(SSS)のOP曲を被せたもの。 山田太郎の体が義体に見えてくる(笑)


■「スターダスト坊主」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7221464
↑一休さんのOPアニメに、宇宙船サジタリウスのOP曲「スターダスト・ボーイズ」を被せたもの。和尚さんの頭に止まる虫の動きまでもが曲と合っている!!

 
 
  特に「スターダスト坊主」は、そのあまりに完璧なシンクロぶりに唖然としてしまいます。


  オープニングアニメのコンテ切りには、なにか一定のルールみたいなもんがあるのでしょうか? どれもそのルールに沿って作られているから、曲を入れ替えてもシンクロするのは当然。
  ・・・なんてわけはないですね(苦笑)

2009年10月8日木曜日

【映画総論】 映画館には行かないことにした

※こちらもご覧ください⇒「【映画総論】 映画館に行かないのもいいもんですよ」



■映画は「映画館で観るべき」か?

  ぼくはつい最近まで、「映画はやはり、家でDVDで見るんじゃなくて、映画館へ出かけて見るのが正しい」などと、頑なに思い込んでいた
・・・「
思い込んでいた」なんて書くくらいだから、今はもう、そんなふうには思っていないのである。

なぜか。それは、
1800円は高すぎるからだ。いくらなんでも高すぎる。

そんなこと、とっくに解りきっているじゃないか。何をいまさら・・・) たしかにそのとおりだ。

実際ぼくは、ブーブー文句を垂れながらも、「
それでも映画を【体験】するためには、やはり映画館へ行かなくてはならないのだ」なんて殊勝なことを考えて、窓口で1800円を(厳密には近所のシネコンのレイト料金1200円を)払い続けてきた。
今にして思うと、それは
お布施みたいなものだったのかもしれない。
映画を観る以外特に楽しみも無い生活をしているぼくみたいな人間にとって、映画館へ行くという行為は「生きている証」に他ならなかった。
言うならば、
ぼくにとって映画館とは、教会だったのだ。
自らの
信仰を守るために、黙々と映画館に通う。そこで払うお布施が少々高かろうが、そんなことは大したことじゃなかった。重要なのは【映画館へ行く】という行為そのものだったのである。

・・・いや、
お布施というのは大袈裟に書き過ぎた

けれど、ぼくが多少なりとも 「
映画館幻想」 を抱いていたのは、本当である。
そりゃあ
お布施というまで割り切れてはいないし、ぼったくられているという意識だって確かにあった
それでも、「
映画館じゃないと分からない味もあるわけだし、しょうがないか・・・」なんていって、律儀に映画館に通い続けたのだ。

たぶん、ぼくだけじゃないと思う。
多くの映画好きな人たちが、映画料金の不当な高さに引っかかりつつも、「ま、
しょうがないか・・・」と高いお金を払い続けてきたのだと思う。

でも本当は、ぜんっぜん
しょうがなくなどないのだ!!


■映画館なんかに行くな

  「しょうがない」なんていって不当に高い料金を支払い続けることが、いったい何をもたらすのか

それは、
映画という商品の価値ぶっちゃけ800円くらいでもかまわないはずだ)と、それに対して実際に支払われる対価依然として1800円のまま)との、大きな乖離である。
本来、
資本主義経済というのは、供給される商品に対して需要側が支払う対価が、競争を通じて適正なものになっていくことで回っていくものだ。
ところが、どうだろう。
日本映画界は、そこから明らかに逸脱している。完全に市場から遊離してしまっている。
その原因の大きな一端は、ぼくのような世間知らずの映画好きが、
映画会社の言い値を「しょうがない」なんていって馬鹿正直に支払ってきたことにもあるのだ。
その結果、日本における映画作りは、まるで
社会主義国家における公共事業のようなものに成り下がってしまった。その成れの果てが、たとえば『20世紀少年』だったりするわけだ。

日本映画がダメになっているように見えるのなら、それは作り手に才能がないとかそういう生易しい理由ではなくて、そもそも
産業構造そのものがおかしなことになっているからなのだ。

なんということだろう。
ぼく(を含む大勢の映画好き)は、「
映画館でないと味わえない本当の映画の味」にこだわるあまり、映画という商品に対して不当に高い対価を支払い続け、日本映画のあり方を歪めてしまったのだ!!

ちなみに、ぼくは「
映画館でないと味わえない本当の映画の味」というのは、実在すると思っている。単なる幻想ではないと思っている。
しかし、だからこそ、それを追い求めること(=
映画館に行くということ)がかえって日本映画をダメにしてしまうという現実に、底知れない敗北感を感じる。
だったらいっそ、日本映画なんていっぺん滅んじまえばいいと思う。
  映画館に誰も行かなくなればいいんだ。
それくらいにならないと、日本映画の産業構造を立て直そうなんて動きはどこからも出てこないだろう。

ぼくは、「
映画館でないと味わえない本当の映画の味」を日本の映画館で好きなだけ味わえるようになる日がいつか来ることを信じて、映画館に行くことを金輪際やめようと思うのである。