2009年10月21日水曜日

【映画各論】 「エア」芸、そしてフェイク・ドキュメンタリー映画の数々

前回(「【映画総論】 エア」)に続き、エアギターやエアあややにいうところの「エア」について考えるところから始めてみたい。

■「エア」あややは、あややの「ものまね」とどう違うのか


この記事は、コロッケ等による「形態模写」(=「ものまね」)を、「動態模写」にまでヴァージョンアップさせたものが「エア」芸なのだ、と考えているように読める。

この記事の考え方でいくと、「エア」芸とは、「自ら歌うこと」を必要としなくなるまでに完成された「形態模写」(=「ものまね」)だ、ということになる。
つまり、「形態模写」(=「ものまね」)の完成度を極限まで高め、ついに「エア」芸を会得したはるな愛は、もはや「歌」を必要としない境地に達したのだ、と。

だが、ぼくは、「歌わないこと」に、むしろ積極的な意味を感じる。

「歌うことを必要としない」のではなく、「歌わないことを必要とする」のではないかと。
歌わないからこその「エア」芸なのではないか、と。

■「エア」芸はなぜおもしろいのか

「歌う前田健」(=「ものまね」)と、「歌わないはるな愛」(=「エア」芸)。
両者はどうちがうのか。
その間には、「形態模写の完成度の違い」というだけでは説明がつかない、もっと根本的な差異があるのではないか。

この点について前回、「エア」芸は「歌う行為」そのものを抽象的に掬い上げており、そこがおもしろいのではないか、という推測をちらっと書いた。

以下、もうすこし詳しく考えてみる。

ぼくたちが「歌う前田健」を見るとき、彼が「歌うあやや」に見えてきてしまう、その点に面白さを感じる。
「前田健」が「あやや」に見える。すなわち「あやや」の模写である。

これに対して、「歌わないはるな愛」の場合はどうか。
「歌わないはるな愛」が、「歌うあやや」に見えてくる。
これは、単に「はるな愛」が「あやや」に見えてくる、というだけのことなのだろうか。

具体的なレベルで、「はるな愛」が「あやや」を模写している、というだけではない。
もうひとつ、抽象的なレベルで、「歌わない人間」が「歌う人間」に見えてくる、という事態も生じているのではないか。

見る者の認識に、具体的なレベルで「揺さぶり」をかけているのは、前田健もはるな愛も同じである。
しかし、はるな愛の場合は、抽象的なレベルにまで「揺さぶり」をかけているのではないか。

「歌っていない」のに「歌っている」ように見える。
これが、「歌う行為」そのものを抽象的に掬い上げる、ということの意味である。
そしてこの抽象性こそが、「形態模写の完成度の高さ」だけでは説明のつかない、「エア」芸に固有のおもしろさなのだと思う。

■「無への言及」としての「エア」芸

「ものまね」芸では、「コロッケ」が「ちあきなおみ」に見える。あるいは、「前田健」が「あやや」に見える。
こうした「変身」は、「有から有への転換」である。

これに対し「エア」芸では、「ギターが無い」が「ギターが有る」に見える。あるいは、「歌っていない」が「歌っている」に見える。
ここで起きていることは、「無から有への転換」である。

つまり「エア」芸は、「無」に言及することにその本質がある。
実に抽象的な領域において成立する芸だといえる。

思えば、エア=空とは、すなわち無である。
だから、はるな愛の芸が「ものまね」ではなく「エア」と呼ばれていることには、きわめて重要な意味がある。

■フェイク・ドキュメンタリーの興隆 国内編

さて、話は変わるが、映画の世界において、近年「フェイク・ドキュメンタリー(またはモキュメンタリー)」というアプローチが脚光を浴びている。

フェイク・ドキュメンタリーとは、かつて『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』で注目を集めた手法である。
すなわち、ドキュメンタリーのような体裁を装いながら、その実すべてがフィクションとして創作された作品の総称だ。

ただ、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』自体は、あまりすぐれた作品ではなかった。
そのため、フェイク・ドキュメンタリーという手法そのものが取るに足らないものであるかのような誤解を、一般にもたらしてしまった。

それでも、フェイク・ドキュメンタリーがまったく廃れてしまったわけではなかった。

国内では、『放送禁止』というTVシリーズがフジテレビでひっそりと放送され続けた。それが好事家の注目を集め、次第にフェイク・ドキュメンタリーの可能性が再認識されるようになったのだと思う。

そうした下地があってか、『ノロイ』という劇場用作品が作られ、ついには『放送禁止』の劇場版までもが製作されるに至った。
(なお、この辺の事情が作家・貴志祐介によって日経新聞の文化欄に大々的に紹介されたのは、うれしい驚きだった。)

その裏では、『ほんとにあった! 呪いのビデオ』シリーズに代表されるフェイク心霊ビデオ(これをフェイク・ドキュメンタリーと言い切ると怒る人もいるかもしれないが・・・)が絶えず製作され続けたことも無視できない。
(なお、前述の『ノロイ』の監督・白石晃士も、このシリーズの一作の演出を担当している。)

もっとさかのぼれば、Jホラーの源流となった「小中理論」(TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」の「シネマハスラー 呪怨・白い老女」を参照のこと)も、その基礎はフェイクドキュメンタリーの方法論にあったといえるだろう。
(「小中理論」の起源となった作品『邪願霊』はまさにフェイクドキュメンタリーだったし、「小中理論」が応用的に展開された『ほんとにあった怖い話』シリーズは実話モノという点でやはりフェイクドキュメンタリーに近い構造を持っていた。)

■フェイク・ドキュメンタリーの興隆 海外編

さらに、海外に目を向けてみても、フェイク・ドキュメンタリーが再び注目を集めている様子がうかがえる。

記憶に新しいところでは『クローバーフィールド/HAKAISHA(Cloverfield)』が挙げられる。

また、『ディストリクト9(District 9)』『パラノーマル・アクティヴィティ(Paranormal Activity)』といった最新作も日本公開を控えている。
特に『パラノーマル・アクティヴィティ』は、スピルバーグがリメイクを考えたがオリジナルを超えることはできないと断念した、なんて話も伝わってくるほど脚光を浴びているのだ。(ちなみに、『ほんとにあった! 呪いのビデオ』シリーズで目の肥えた日本人を満足させることができるか? という点でも楽しみである。)

あと、変り種では、『宇宙人の解剖(Alien Autopsy)』を挙げることもできるかもしれない。
これは、あの「宇宙人解剖フィルム」が作られた舞台裏を劇映画に仕立てた作品である。フェイクドキュメンタリーではないものの、「現実に存在するフェイクフィルム」を「劇映画という虚構」に封じ込めるという意味で、まるでフェイクドキュメンタリーの虚実を反転させたような構造を持っている。

このように近年の映画界において、国内外を問わず、フェイクドキュメンタリーの方法論が大きな注目を集めているという状況があるのだ。

■「エア芸の発見」と「フェイク・ドキュメンタリーの興隆」のシンクロニシティ

こうして、時期を同じくして「エア芸」と「フェイク・ドキュメンタリー」がにわかに脚光を浴びることになったのは、決して偶然ではないと思う。

フェイク・ドキュメンタリー映画のおもしろさは、物語の虚構性に直接言及するところにある。
個々の物語の「顔」をこえて、「虚構が立ち上がるシステム」そのものに言及することころに、おもしろさがある。

この「虚構が立ち上がるシステム」は、エア芸において言及される「無から有への転換」と同じものなのではないだろうか。

はるな愛の芸においては、「はるな愛があややに見える」のみならず、「歌っていないのに歌っているように見えること」(=無から有への転換)自体がおもしろい。
これは、フェイク・ドキュメンタリー映画において、「個々の物語の展開」のみならず、「まったくの嘘っぱちがドキュメンタリーのように見えること」(=虚構が立ち上がること)自体がおもしろい、ということに酷似していないだろうか。

このような、きわめて抽象的な領域において成立する「おもしろさ」が求められている。
それが、現在の状況なのではないだろうか。
「エア芸」と「フェイク・ドキュメンタリー映画」は、いずれもそのような文脈において求められているのではないだろうか。

■ダイノジが見せる「抽象的な領域」

・・・以上に書いたことは、自分でもいまいち整理できていないので、読んでいただいた方にどれだけ伝わるかは死ぬほど心もとない。クワー(笑)。

そこで、せめて、こうしたことを考えるきっかけとなったソースを最後に挙げておこうと思う。

それは、『お笑い芸人のちょっとヒヒ話』さんの「ロックンロールはウソの共有」というエントリー。

ぼくが「無から有への転換」とか「虚構が立ち上がるシステム」といった言葉で表現しようとしたものは、このエントリーで引用されているダイノジ大谷氏の「ウソの共有」という言葉からぼくがイメージしたものと同じである。

あと、ダイノジのこの芸は、かなり「抽象的な領域」で成立していると思う。


そう、いうまでもないことだが、ダイノジ大地氏はエアギターのマスターなのだった。

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