2009年10月16日金曜日

【映画総論】 映画の「説得力」をめぐって

■映画と連続TVドラマの違い

前回のエントリーで、映像メディアにおける物語は「円環タイプ」と「直線タイプ」の2種類に分類できるのではないか? そして、「円環タイプ」では物語世界の構築が、「直線タイプ」では物語世界の変容が、それぞれ主たるテーマになるのではないか? ということを書いた。
(なお、あらゆる物語が「円環」と「直線」のいずれかに割り切れるのではなく、むしろそれぞれの特徴を兼ね備えた物語もありうる、ということも書きました。物語の構造を解析する上での思考モデル、という程度に考えておいてください)

さて、ぼくたちがふつう「映画を観る」と言う場合、それは「約2時間の映像を通して語られる物語を鑑賞する」ということを意味する。
つまり、「映画を観る」とは、ひとまとまりの映像を初めから終わりまでいちどきに鑑賞することによって一つの物語を理解するという、一回性の直線的な体験である。
だから、そこで語られる物語は、「直線タイプ」の物語ということになる。

ここで注意したいのは、映画における物語が「直線タイプ」なのは、純粋に映画の「発表形態」に起因するものでしかないということだ。
別に、映画が連続TVドラマに比べて格調高いわけでもなんでもない。
連続TVドラマは毎週決まった時間に複数回に分けて放映されるから「円環タイプ」になる。映画はその全部をまとめて一度に上映するから「直線タイプ」になる。
それ以上でも以下でもない。
(さらにいえば、単発のTVドラマは、そこで語られる物語が「直線タイプ」である以上、その本質は劇場映画となんら変わりはないということになる。)

■映画はTVよりも高級?

では、なぜ「連続TVドラマよりも映画のほうが高級だ」というような風潮があるのだろう?
それはたぶん、「円環タイプ」の物語よりも、「直線タイプ」の物語のほうが、「人生の全体像」を表現するのに向いているからなのだと思う。
どういうことかというと、前回のエントリーの最後で少し触れたように、ぼくたちの現実の人生は、①「毎日の繰り返し」というミクロなタイムスケールで見れ ば「円環タイプ」の構造をしているが、それと同時に、②「生まれてから死ぬまで」というマクロなタイムスケールで見れば「直線タイプ」の構造をしている。
つまり、すぐれた「直線タイプ」の物語を鑑賞することは、マクロなタイムスケールでの「人生の全体像」を見通すような感覚をもたらすのである。
そういうわけで、よい映画を観ると、人生をより深く理解する(あるいは、理解したかのような気になる)ことができる。
いやー、映画っていいもんですね。
・・・そんなところなのではないだろうか。
(あと、忘れてならないのは、窓口料金1800円という狂った料金設定!このせいで映画の敷居が不必要に上がってしまっているのが日本の現実。映画たるも の、1800円の投資に見合うだけの感動をもたらすものでなければならない!という・・・。「円環」「直線」うんぬんよりも、むしろこっちのほうが重要か もしれない・苦笑)

ただ、くりかえすが、こうした「円環」と「直線」のちがいは、純粋に発表形態の違いでしかない。
映画とTVのちがいは、その程度のものでしかない。
(さらにいえば、前回のエントリーの最後でも触れたが、すぐれた連続TVドラマは、「円環」を積み重ねた「直線」という構造を描くことが出来る。これは単 に「直線」でしかない映画よりも、はるかにぼくたちの現実の人生に近い。したがって、すぐれた連続TVドラマは、むしろいかなる映画よりもはるかに魅力的 なのだ、ともいえるかもしれない。物語の価値を「人生の疑似体験」に置くのならば・・・)
(なお、前回のエントリーでも対比として挙げた『男はつらいよ』の場合は、「直線」を積み重ねた結果の「円環」であって、上に書いたのとは似て非なるもの である。ぼくたちの現実の人生とは真逆の構造である。とてもグロテスクな世界だといえる。それはそれで魅力的なのだが・・・)

■映画の「価値」は何で決まる?


映画を評価するときのキーワードとして、「リアリティがある」「感情移入できる」「迫真の演技」「人間を描けている」といったような言葉をよく見かける。
こうした言葉に出会うたび、ぼくは違和感を覚える。映画の一面しかとらえていないような気がしてしまうからだ。

たしかに、映画が得意とする「直線タイプ」の物語は、「人生におけるマクロなタイムスケール」になじみやすい。
つまり、映画は、「人生を描くのに適した表現形態」という側面をもっている。
その側面だけに着目するならば、「よい映画=人生を疑似体験できる映画」ということになる。
こうした観点からすれば、前述の「リアリティ」「感情移入」といったキーワードは、たしかに「よい映画」のバロメーターたりうるだろう。

しかし、「直線タイプ」の物語の本質は、人生の箱庭を作ることにあるのではない。
前回のエントリーで触れたように、「物語世界の変容(=主人公の成長・挫折)」を、いかに説得力をもって描くかにあるのだ。
「直線タイプ」の物語にあっては、物語世界の変容こそが観客にカタルシスをもたらす。
そのカタルシスに酔った観客は、場合によっては人生の真実に触れたかのように「錯覚」してしまう。
映画を通して人生に触れた、なんていうのは、錯覚でしかないのだ。
「人生の美しさを描いた映画」の正体なんて、そんなものだと思う。

だいたい、映画が本当に人生の箱庭なのであれば、映画に常日頃触れている映画業界の人たちは、人格的にも立派な人たちでなければならないはずだ。
しかし、どうやらそんなことはないらしい。その証拠が窓口料金1800円。映画会社の人たちが人格者であれば、こんな理不尽を放置するはずがないではないか(笑)

けっきょく、映画の価値は、「物語世界の変容」をいかに説得力をもって描くかによって決まる。
そして、ここでいう「説得力」とは、「リアリティ」「感情移入」などと必ずしもイコールではない。
それが、映画の面白さだ。
リアリティのかけらもない、感情移入のしようがない人物しか出てこない。それでも、妙に強引な「説得力」をもった映画というのは、存在するのだ。

じゃあ、その「説得力」の正体は何か?それは、観客の感情のコントロールである。
これをとことんまで突き詰めたのが、ハリウッドなのだと思う。
ハリウッドが出した答えは、『神話の法則』という本に詳しく書いてある。


一言でいうと、脚本の構成をしっかり考えましょう、ということ。
主人公が直面する困難の数々を、その程度に応じて適切な順序で配置する。あるいは、主人公の仲間や敵となる人物をバランスよく配置する。
そうやって観客の感情を適切に操作していけば、物語のクライマックスである「主人公が直面する最大の危機」において、観客の感情は最高に昂る。
その結果、主人公がこれを乗り越えた(挫折した)場面で、観客は「物語世界の変容」を実感し、大きなカタルシスを感じることが出来るのである。

脚本の構成がしっかりしていれば、「リアリティ」「感情移入」などに頼らずとも、観客にカタルシスをもたらすことが出来る。
それが、映画の「説得力」だ。

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