2009年10月23日金曜日

【映画総論】 あらゆる場所に「物語」が・・・

加藤夏希の件のいったい何が「綺麗」か?

ぼくは前回のエントリーで、加藤夏希をめぐる「物語」の終結を指して、「あまりに綺麗だ」と評した。
これからその真意を詳しく述べてみたい。

■「オクテな美女」の物語

まず、確認しておきたいのは、これまで我々が加藤夏希に対して抱いてきたイメージである。
それは、「あまり男性経験がない」というものだ。
彼女自身、TVにて恋愛が得意でない旨の発言をしているし、アニメオタクであると公言してはばからないことからすると、自らそうした「オクテキャラ」のイメージを広めようとしていた節もある。
それが真実か否かはどうでもよい。
我々はTV画面を通して、「加藤夏希は男性経験に乏しい」という「物語世界」を共有していた。大事なのはそれだけである。
(※参考記事:「ロックンロールはウソの共有」by『お笑い芸人のちょっとヒヒ話』さん

次に問題となるのが、あるラジオ番組における「包茎全肯定発言」だ。
この発言は、先に見た「加藤夏希は男性経験に乏しい」という「物語世界」における、新たな構成要素となった。
すなわち、「加藤夏希の数少ない男性経験の中には、包茎男子しか登場しない。」という新たなエピソードを我々に提供してくれたのである。

この時点では、主人公はまだ加藤夏希である。
加藤夏希という「オクテな美女」の物語である。

■それが「包茎男」の物語へと変容した

そこへ今回、新たな登場人物が現れた。
「加藤夏希の元カレであり元マネージャーである男」だ。

彼はこの「物語」のすべてをさらっていった。
彼は、加藤夏希をこの「物語」の主人公の座から引きずり降ろした。

なぜなら、彼の登場により、この物語はもはや加藤夏希の物語ではなくなってしまったからだ。

この「オクテな美女の物語」は、彼の登場によって、「表舞台に一切顔を出していないにもかかわらず包茎であることがばれてしまったオモシロ男の物語」へとすっかり変容してしまったのだ。

彼は、ただ登場するだけで、それまで加藤夏希を中心にまわっていた物語を、すっかり「自分の物語」に変えてしまった。
そのあまりにドラスティックな「物語世界の変化」を、ぼくはとても綺麗だと感じたのである。

■直線タイプの物語の「説得力」

以前、「直線タイプの物語」の価値は、「その物語世界の変容をいかに説得力をもって描くか」にかかっている、という話をした。(※「直線タイプ」ということばの意味なんかも含めて、こちらの記事こちらの記事ご参照くださいm(_ _)m)

その考え方でいくと、今回の加藤夏希をめぐる物語世界の激変は、その「隙のなさ」(すべてのピースが一瞬にして包茎男の方へ向きを変える、という意味での「隙のなさ」)によって、妙な説得力を獲得したといえるだろう。

そして、まさにその「妙な説得力」によって、加藤夏希をめぐる物語は「価値のある物語」(=おもしろい話)として幕を閉じることができたといえるだろう。

■「物語」は映画館の中だけにあるのではない

このように、「物語」は様々な場所に潜んでいて、ふとしたきっかけでその姿を現す。
このことは、ネットによって物語環境がユビキタス化の一途をたどっている現在において、きわめて重要な事実である。

物語鑑賞者は、むしろ映画館の外にこそ眼を向けなければならないのだ。

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