2009年10月19日月曜日

【映画総論】 エア

エアギター
それは「空気で出来たギター」を演奏すること。

エアセックス
それは「空気で出来た異性」とセックスすること。

これらを「エア」と形容するのはわかりやすい。
そこに無いものを、まるで有るかのように振舞うのだから。
「裸の王様が着ている服」みたいなものだ。

では、エアあややはどうか。
これのどこに「エア」の要素があるのか。
ふつうのものまねとどう違うのか。

考えられるのは、「自らは歌わない」ところにエア要素があるということである。
そこにいるのは「歌うフリをする人」。なのに、まるでそこに「歌う人」がいるかのように思わせる。
数式にすれば、
「歌うあやや」-「歌うフリをするはるな愛」=「エア」
となるだろうか。

かなりややこしいことになっている。
「歌う美川憲一」-「歌うコロッケ」=「ものまね」 とは、何かが本質的に違う。

たぶん、エアあややにおける「エア」の対象は、「歌う行為」そのものなのだ。
空気で出来た「歌う行為」を見せる芸なのだ。
えらく抽象的な「エア」である。

あと、ここでの「エア」も、相当抽象的なものが対象になっていると思う。

・・・なんでこんな話をしたのかというと、映画にももっと「エア」が欲しいと思うからだ。
「見せる」と「見せない」の間にある、何かもやもやしたものを、もっと表現して欲しい。
CGがつまらないのは、そこに「エア」が足りないからだ。たぶん。

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