
なんて他人事のような書き方をしたが、かくいう自分も、たまに「企画モノ」を借りることがある。(うっわ、わけわかんねーのばっかだなーw)などと「企画モノ」の棚を眺めていると、期せずしてピンとくるタイトルを見つけてしまうことがあるのだ。
そんな時ぼくは、「嗚呼、どんな奇天烈な企画モノも、やはりビジネスとして作られているのだなあ・・・」と、思わず遠い目をしてしまう。
いかにわけのわからないタイトルも、それが商品としてリリースされている以上は、確固たるマーケットの存在を想定しているということなのだから。そして、他ならぬぼくがそのマーケットの存在を証明してしまっているのだから・・・。
とはいえ、「企画モノ」はどこまでいっても脇役だろう。
「企画モノ」がビジネスとして成り立つのは、主役の「フツーのAV」がしっかり巨額の金を動かしているからだろう。
とある男が(あ~、なんかムラムラするな~)と悶々していたとしても、彼がレンタル屋に行けば、たとえば麻美ゆまや穂花みたいな「わかりやすくいい女」が「わかりやすいエロ」を見せてくれるビッグタイトルを、1本2~300円くらいで気軽に借りて、インスタントに欲求不満を解消することが出来る。
そうした「フツーのAV」のマーケットが確立しているからこそ、その隙間に「わかりにくいエロ」をみせる「企画モノ」のマーケットがかろうじて存在することが出来るのだろう。「フツーのAV」という主役がたくさんのお客を確保しているからこそ、「企画モノ」という脇役がマニアックな商売をできるのだろう。
さらにいえば、「企画モノ」は、けっして自らをビッグタイトルと吹聴することはない。「企画モノ」は「企画モノ」の棚につつましく収まっている。だから、AVビジネス全体のバランスを乱すことも無い。
■それにひきかえ日本映画界といったら・・・
かように健全な産業構造を実現しているAV界にくらべて、日本映画界の産業構造のなんと歪つなことか!
そもそも日本映画界は、「フツーの商売」ができていない。
(なんかひまだなー)という人が映画館に出かけて、わかりやすく面白い(ex.感動する、怖い、笑える、興奮する・・・)「フツーの映画」を、1本(せめて)800円くらいの気軽な値段でみることができる。
そういうのが、映画界における「フツーの商売」であるはずだ。
しかし、窓口料金一律1800円という狂った料金設定のせいで、日本のお客はそもそも「気軽に映画を見に行く」ということができずにいる。
つまり、日本映画界では、「フツーの商売」などまったく成立していない。
「わかりやすいフツーの映画」(大きなマーケットを狙うべき映画)がしっかりとお客を確保する、ということが全くできていないのだ。
このように、大きなマーケットを狙うべき映画が商品として機能していない以上、小さなマーケットを狙うべき「わかりにくい芸術的な映画」が作られる余地などどこにも無いはずだ。
にもかかわらず、現実には、「わかりにくい芸術的な映画」が当然のように作られ、劇場にかかっている。当たり前のことだが、客なんか入らない。なのに、作り手や自称映画通は、「だから日本の観客はダメなんだ」なんてことを言う・・・。
・・・もうめちゃくちゃだよ!!
■もっと悪いことには・・・
このように、「わかりやすく面白いフツーの映画」を提供するというまともなビジネスをあまりに軽視している日本映画界。
そのため、商業主義と作家主義がとても醜い形で混ざり合ってしまっている。
AV界をお手本に考えれば、
①わかりやすいコンテンツを安価に提供することで一定規模のマーケットを確保する(商業主義) ・・・フツーのAV
②その余力で小さなマーケットに向けたマニアックなコンテンツを作る(作家主義) ・・・企画モノAV
というのがコンテンツ産業の健全なあり方であるはずだ。
しかし、日本映画界では、この①②の順序が無視されている。
商業主義をないがしろにして、作家主義を前面に押し出す。にもかかわらず、実際の売り方は商業主義(の真似事)であったりする。
つまり、プロとしての自覚がない。そのために、ビッグバジェットの作品が自主映画まがいの出来だったりする(商業主義と作家主義の悪しき混合!)のだから、イヤになる。
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