
■映画は「映画館で観るべき」か?
ぼくはつい最近まで、「映画はやはり、家でDVDで見るんじゃなくて、映画館へ出かけて見るのが正しい」などと、頑なに思い込んでいた。
・・・「思い込んでいた」なんて書くくらいだから、今はもう、そんなふうには思っていないのである。
なぜか。それは、1800円は高すぎるからだ。いくらなんでも高すぎる。
(そんなこと、とっくに解りきっているじゃないか。何をいまさら・・・) たしかにそのとおりだ。
実際ぼくは、ブーブー文句を垂れながらも、「それでも映画を【体験】するためには、やはり映画館へ行かなくてはならないのだ」なんて殊勝なことを考えて、窓口で1800円を(厳密には近所のシネコンのレイト料金1200円を)払い続けてきた。
今にして思うと、それはお布施みたいなものだったのかもしれない。
映画を観る以外特に楽しみも無い生活をしているぼくみたいな人間にとって、映画館へ行くという行為は「生きている証」に他ならなかった。
言うならば、ぼくにとって映画館とは、教会だったのだ。
自らの信仰を守るために、黙々と映画館に通う。そこで払うお布施が少々高かろうが、そんなことは大したことじゃなかった。重要なのは【映画館へ行く】という行為そのものだったのである。
・・・いや、お布施というのは大袈裟に書き過ぎたw
けれど、ぼくが多少なりとも 「映画館幻想」 を抱いていたのは、本当である。
そりゃあお布施というまで割り切れてはいないし、ぼったくられているという意識だって確かにあった。
それでも、「映画館じゃないと分からない味もあるわけだし、しょうがないか・・・」なんていって、律儀に映画館に通い続けたのだ。
たぶん、ぼくだけじゃないと思う。
多くの映画好きな人たちが、映画料金の不当な高さに引っかかりつつも、「ま、しょうがないか・・・」と高いお金を払い続けてきたのだと思う。
でも本当は、ぜんっぜんしょうがなくなどないのだ!!
■映画館なんかに行くな
「しょうがない」なんていって不当に高い料金を支払い続けることが、いったい何をもたらすのか。
それは、映画という商品の価値(ぶっちゃけ800円くらいでもかまわないはずだ)と、それに対して実際に支払われる対価(依然として1800円のまま)との、大きな乖離である。
本来、資本主義経済というのは、供給される商品に対して需要側が支払う対価が、競争を通じて適正なものになっていくことで回っていくものだ。
ところが、どうだろう。日本映画界は、そこから明らかに逸脱している。完全に市場から遊離してしまっている。
その原因の大きな一端は、ぼくのような世間知らずの映画好きが、映画会社の言い値を「しょうがない」なんていって馬鹿正直に支払ってきたことにもあるのだ。
その結果、日本における映画作りは、まるで社会主義国家における公共事業のようなものに成り下がってしまった。その成れの果てが、たとえば『20世紀少年』だったりするわけだ。
日本映画がダメになっているように見えるのなら、それは作り手に才能がないとかそういう生易しい理由ではなくて、そもそも産業構造そのものがおかしなことになっているからなのだ。
なんということだろう。
ぼく(を含む大勢の映画好き)は、「映画館でないと味わえない本当の映画の味」にこだわるあまり、映画という商品に対して不当に高い対価を支払い続け、日本映画のあり方を歪めてしまったのだ!!
ちなみに、ぼくは「映画館でないと味わえない本当の映画の味」というのは、実在すると思っている。単なる幻想ではないと思っている。
しかし、だからこそ、それを追い求めること(=映画館に行くということ)がかえって日本映画をダメにしてしまうという現実に、底知れない敗北感を感じる。
だったらいっそ、日本映画なんていっぺん滅んじまえばいいと思う。
映画館に誰も行かなくなればいいんだ。
それくらいにならないと、日本映画の産業構造を立て直そうなんて動きはどこからも出てこないだろう。
ぼくは、「映画館でないと味わえない本当の映画の味」を日本の映画館で好きなだけ味わえるようになる日がいつか来ることを信じて、映画館に行くことを金輪際やめようと思うのである。
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