2009年11月9日月曜日

【その他雑記】 渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)

本書の著者である渡辺京二氏は、ぼくにとっては「予備校のセンセイ」である。
かつてぼくが浪人生だった頃、通っていた予備校で現代国語の講師をしていたのが、渡辺氏だった。
当時、渡辺氏は69歳。血色のよい白髪の好々爺、という印象だった。
結構ミモフタもないことを言って、教室の笑いを取っていた覚えがある。
「満員電車に乗ってね、すぐ隣に若い女性がいたりするとさ。もちろんそんなことはしないよ。絶対にしないのだけれど、・・・でも、触りたくなるのは確かなんだよなあ」
もちろん何の脈絡もなくこんな話をしたわけではなくて、渡辺氏は「実感」というものの大切さを冗談交じりに語っていたのだ。

話は飛ぶが、日本において「思想」や「哲学」といった言葉は、「実感を伴わない言葉」と同義なのではないか。そう思うことがある。
要は、「ホンネとタテマエ」といった、よくある日本人論である。
日本において、なにか「言論」を発信しようと思うと、それはどうしても「実感」から乖離したものになってしまう。
なぜかはよく分からないが、どうしても「そうなってしまう」のである。

渡辺氏が日本の言論界から距離をおいているのは、どうもそのあたりに理由がある気がする。

本書において渡辺氏がまとめ上げた外国人の手記は、いずれも彼らの「実感」をつづったものだ。
日本において「実感」は、「言論」として扱われない。
それでも渡辺氏は、そんなことはお構いなしに、「彼らがそういう「実感」を持ったのは確かなんだからさ」と、この大著をまとめ上げた。
こうして「実感を伴った言葉」によって編み上げられた本書は、読む者を強くひきつける。
その言葉の魅力は、前述した渡辺氏の冗談のチャーミングさに通ずるように思う。
事実、ぼくは本書を読みながら、何度となく笑った。

ただ、注意しなければならないのは、本書において語られる「実感」とは、とっくに滅んでしまった文明によってもたらされた「実感」だ、ということである。
つまり、その「実感」には、ぼくたちはどうやったって手が届かないのだ。
もっとも著者である渡辺氏がそれを自覚していないはずなどなく、そのことは本書のタイトルに「逝きし」という完了形の語句が冠せられていることからして自明である。

本書に描かれた古き日本を、これからの日本のあるべき姿の参考にする・・・そんな発想は、本書が執筆された意図とは真逆のところにあるというべきだろう。

「私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、一つの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんでくるのだと私はいいたい。そしてさらに、我々の近代の意味は、そのような文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明かせないだろうといいたい。」(本書65ページ)

すでに滅んでしまった徳川文明は、本書に挙げられた数々の「実感」をもたらした。
では、ぼくたちがいま現在生きているこの文明は、いったいいかなる「実感」をもたらしているのか?
そのことを考えるヒントとしてこそ、本書の存在意義がある。

最後に、本書最終章「心の垣根」の、『東海道中膝栗毛』に見られる「明るいニヒリズム」を参照しながら述べられる箇所を引用しておきたい。

「しかしなお今日のわれわれは、この物語のユーモアに不気味なもの、何か胸を悪くするようなものを感じる。それはわれわれがおのれという存在、したがって他者をも含むわれわれという存在に、個としてのたしかな証明を求めるようになったから、換言すれば西欧近代のヒューマニズムの洗礼を受けたからである。むろん今日このヒューマニズムは、世界を固定化してきた価値観として十字砲火を浴びつつある。にもかかわらず、われわれは生きるという感覚において、ヒューマニズム以前へ引き返すことは出来ない。われわれは弥次郎兵衛・喜多八のように生きることは出来ないし、またそう生きたいとも願わないだろう。
「おのれという存在に確かな個を感じるというのは、心の垣根が高くなるということだった。(中略)・・・エドウィン・アーノルドのように、日本の庶民世界ののどかさ気楽さにぞっこん惚れこんだ人は、西欧的な心の垣根の高さに疲れた人だった。しかし、心の垣根は人を疲れさせるだけではなかった。それが高いということは、個であることによって、感情と思考と表現を、人間の能力に許される限度まで深め飛躍させうることだった。オールコックやブスケは、そういう個の世界が可能ならしめる精神的展開がこの国には欠けていると感じたのである。」(本書575~576ページ)

本書は、ある意味とても残酷な本だともいえよう。
過ぎ去った時は、二度と戻らないのである。

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