■これを閉塞と見るか?解放と見るか?
自室に設置したwebカメラで、自らのダンスを撮影する女の子たち。みんな、おなじ曲で踊っている。
ともすると「ネット空間に自閉する若者」「グローバル化社会における画一化」なんていう文脈でカンタンにまとめられてしまいそうな映像だ。
しかし、当の女の子たちの表情はとても自然だ。
みんな、気負うことなく自分のダンスを楽しんでいる。
ゆるく踊る子もいれば、激しく踊る子もいる。
ひとりひとり異なるグルーヴが、次々と切り替わっていく。
そこには、「人間の肉体の差異」を素朴に肯定するかのような雰囲気が漂ってくる。
この雰囲気が、たまたま再読していた『ジオラマ論』(by伊藤俊治)に収録してある解説(by椹木野衣)の一節とリンクする気がしたので、以下に引用する。
今後、「電子の森」がいっそうの発展を迎えることが火を見るよりも明らかな以上、私たちの身体の所在はますますうつろなものとなっていくにちがいない。あらかじめ保証された自然の所産としての身体などは、そのような電子の森にあっては、真っ先にシミュレートされ、現実の座を失ってしまうだろう。肝心なのは、電子の森の模倣能力や計算能力と限りなく相似であるにもかかわらず、最後の一線においてしか見えてこない、模倣も計算もまったく不可能な特異点を、しかもあくまでなまなましい身体として峻別することができるか否かということだろう。
(ちくま学芸文庫版p382)
この文章は、1996年時点のものである。
ここでいう「電子の森」とは、当時進行中だったCGの大発展を見越しての表現である。
2009年現在の、CGにも飽きてしまったぼくたちとは違う視点で書かれた文章であることに留意しなければならない。
つまり、現在のぼくたちは、ここでいう「電子の森」にすっかり包囲され尽くしており、しかもそれが完全な日常と化している状況にある。
(それはすなわち、自らの姿をwebカメラで撮影してネットにアップすることが当たり前となっている状況である。1996年当時における、CGの精密度を映像フレーム内でうんぬんするような次元など、とうに通り越している。)
そんな中で、このPVがとてもさりげなく、しかし確実に、「模倣も計算もまったく不可能な特異点」を楽しげに提示して見せたことは、ものすごく重要な事件だと思うのだが、どうだろう。
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