生前のマイケルに興味の無かった人々が、この映画を観てマイケルの偉大さを初めて知った、という。
ひょっとすると、僕たちは今、「ポップスター」が「神」になる過程に立ち会っているのかもしれない。
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僕たちは、マイケルの死とほぼ時を同じくして、忌野清志郎というもうひとりの偉大な「ポップスター」を失っている。
しかし、清志郎という「ポップスター」は、その死を経ても、決して「神」になることはないと思う。清志郎の場合は、ぼくたちの記憶の中に、いつまでも生前の姿のままで残り続けるだろう。
これに対して、マイケル・ジャクソンという「ポップスター」の場合は、その死後、生前とは明らかに違う姿、すなわち「神」になってぼくたちの前に再臨しようとしているように見える。
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もしかすると、清志郎は、完全な「ポップスター」にはなりきれない存在だったのかもしれない。
「ポップスター」である前に、ひとりのブルース・シンガーだった。
彼は、ブルースを手放さなかった。それなのに「ポップスター」でもあり続けた。その両面性に、清志郎の壮絶さがあるのかもしれない。
対して、生前のマイケルは、泣く子も黙る完全な「ポップスター」だった。
マイケルは、あえてブルースに背を向けた。
その姿勢が、逆説的にマイケル固有のブルースでもあったのだが・・・
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こんな比喩はどうだろう。
地べたを這い続けた清志郎と、中空を漂い続けたマイケル。
しかし、二人とも、一貫して「愛」を歌い続けた。
この世界に生きながら、「愛」を歌うこと。
そこには、ただならぬ軋轢が生まれる。
その軋轢こそが、「ポップ」なのではないか。
それは、ただのラブ&ピースなんかじゃ決してない。
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マイケルは死んだ。
彼はもう、「愛」を歌うことの軋轢に苦しまなくていい。
純粋に、彼が歌う「愛」だけが、世界に広がっていく。
ただ、それはもはや、「ポップ」ではない。
もしかすると、「神」というのは、「ポップ」の剥製なのかもしれない。
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