2009年12月4日金曜日

【その他雑記】 矢沢・長渕・尾崎

きのうの「木曜JUNK・アンタッチャブルのシカゴマンゴ」(TBSラジオ)でのひとコマ。

長渕剛のコンサートに行った、という話をする柴田。
対して、長渕を斜めから見ている山崎は、要所要所でからかいに入る。

そんな山崎に対して、いかに長渕が素晴らしいかを語る柴田。こんな良い曲があるん

だぞと歌い始める。
しかし、ファンを自称する割には、歌詞やメロディがすんなり出てこない。

すると山崎が、「ああ、それってこういう曲でしょ」と難なく歌い上げる。

「なんでお前のほうが詳しいんだよ(笑)」と柴田。
「俺だってぜんぜん聴いてないわけじゃないからね」と山崎。

「そうね。長渕は男だったら一度は通る道だからね」と柴田。
それに対する山崎の返しがおもしろかった。

「うん。そしてやがて離れていく、っていうね(笑)」

※※※

そういえば、リリー・フランキーがこんなことを言っているのを読んだことがある。

「矢沢・長渕・尾崎を素直に受け入れることが出来るようになったら、男は楽になれる」

※※※

矢沢・長渕・尾崎。

かつてナンシー関は、「日本人はヤンキーとファンシーの呪縛から逃れられない」と喝破

した。
ここでいう「ヤンキー」的なるものを一身に背負っているのが、他でもない、「矢沢・長渕

・尾崎」だ。

日本男子は、誰も「矢沢・長渕・尾崎」を避けては通れない。
「男だったら一度は通る道」なのは確かだ。

しかし、事態はそう簡単ではない。
なぜなら、多くの者がそこから「やがて離れていく」ということも、また事実だからだ。

「矢沢・長渕・尾崎」のファンの中には、初めからずっと同じテンションでファンであり続け

ているひとたちもいるだろう。
しかし、「一度離れて、また戻ってきたひと」というのも、かなりの割合でいるのだと思う。

・・・「矢沢・長渕・尾崎」をめぐって、行ったり来たりを繰り返す。
それが、日本男子の自我のあり方の、偽らざる実態なのではないだろうか?

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