2009年11月21日土曜日

【その他雑記】 電気グルーヴ『Upside Down』PV directed by 田中秀幸



■これを閉塞と見るか?解放と見るか?

自室に設置したwebカメラで、自らのダンスを撮影する女の子たち。みんな、おなじ曲で踊っている。

ともすると「ネット空間に自閉する若者」「グローバル化社会における画一化」なんていう文脈でカンタンにまとめられてしまいそうな映像だ。

しかし、当の女の子たちの表情はとても自然だ。

みんな、気負うことなく自分のダンスを楽しんでいる。
ゆるく踊る子もいれば、激しく踊る子もいる。

ひとりひとり異なるグルーヴが、次々と切り替わっていく。
そこには、「人間の肉体の差異」を素朴に肯定するかのような雰囲気が漂ってくる。

この雰囲気が、たまたま再読していた『ジオラマ論』(by伊藤俊治)に収録してある解説(by椹木野衣)の一節とリンクする気がしたので、以下に引用する。

今後、「電子の森」がいっそうの発展を迎えることが火を見るよりも明らかな以上、私たちの身体の所在はますますうつろなものとなっていくにちがいない。あらかじめ保証された自然の所産としての身体などは、そのような電子の森にあっては、真っ先にシミュレートされ、現実の座を失ってしまうだろう。肝心なのは、電子の森の模倣能力や計算能力と限りなく相似であるにもかかわらず、最後の一線においてしか見えてこない、模倣も計算もまったく不可能な特異点を、しかもあくまでなまなましい身体として峻別することができるか否かということだろう。
(ちくま学芸文庫版p382)

この文章は、1996年時点のものである。
ここでいう「電子の森」とは、当時進行中だったCGの大発展を見越しての表現である。
2009年現在の、CGにも飽きてしまったぼくたちとは違う視点で書かれた文章であることに留意しなければならない。

つまり、現在のぼくたちは、ここでいう「電子の森」にすっかり包囲され尽くしており、しかもそれが完全な日常と化している状況にある。
(それはすなわち、自らの姿をwebカメラで撮影してネットにアップすることが当たり前となっている状況である。1996年当時における、CGの精密度を映像フレーム内でうんぬんするような次元など、とうに通り越している。)

そんな中で、このPVがとてもさりげなく、しかし確実に、「模倣も計算もまったく不可能な特異点」を楽しげに提示して見せたことは、ものすごく重要な事件だと思うのだが、どうだろう。

2009年11月9日月曜日

【その他雑記】 渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)

本書の著者である渡辺京二氏は、ぼくにとっては「予備校のセンセイ」である。
かつてぼくが浪人生だった頃、通っていた予備校で現代国語の講師をしていたのが、渡辺氏だった。
当時、渡辺氏は69歳。血色のよい白髪の好々爺、という印象だった。
結構ミモフタもないことを言って、教室の笑いを取っていた覚えがある。
「満員電車に乗ってね、すぐ隣に若い女性がいたりするとさ。もちろんそんなことはしないよ。絶対にしないのだけれど、・・・でも、触りたくなるのは確かなんだよなあ」
もちろん何の脈絡もなくこんな話をしたわけではなくて、渡辺氏は「実感」というものの大切さを冗談交じりに語っていたのだ。

話は飛ぶが、日本において「思想」や「哲学」といった言葉は、「実感を伴わない言葉」と同義なのではないか。そう思うことがある。
要は、「ホンネとタテマエ」といった、よくある日本人論である。
日本において、なにか「言論」を発信しようと思うと、それはどうしても「実感」から乖離したものになってしまう。
なぜかはよく分からないが、どうしても「そうなってしまう」のである。

渡辺氏が日本の言論界から距離をおいているのは、どうもそのあたりに理由がある気がする。

本書において渡辺氏がまとめ上げた外国人の手記は、いずれも彼らの「実感」をつづったものだ。
日本において「実感」は、「言論」として扱われない。
それでも渡辺氏は、そんなことはお構いなしに、「彼らがそういう「実感」を持ったのは確かなんだからさ」と、この大著をまとめ上げた。
こうして「実感を伴った言葉」によって編み上げられた本書は、読む者を強くひきつける。
その言葉の魅力は、前述した渡辺氏の冗談のチャーミングさに通ずるように思う。
事実、ぼくは本書を読みながら、何度となく笑った。

ただ、注意しなければならないのは、本書において語られる「実感」とは、とっくに滅んでしまった文明によってもたらされた「実感」だ、ということである。
つまり、その「実感」には、ぼくたちはどうやったって手が届かないのだ。
もっとも著者である渡辺氏がそれを自覚していないはずなどなく、そのことは本書のタイトルに「逝きし」という完了形の語句が冠せられていることからして自明である。

本書に描かれた古き日本を、これからの日本のあるべき姿の参考にする・・・そんな発想は、本書が執筆された意図とは真逆のところにあるというべきだろう。

「私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、一つの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんでくるのだと私はいいたい。そしてさらに、我々の近代の意味は、そのような文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明かせないだろうといいたい。」(本書65ページ)

すでに滅んでしまった徳川文明は、本書に挙げられた数々の「実感」をもたらした。
では、ぼくたちがいま現在生きているこの文明は、いったいいかなる「実感」をもたらしているのか?
そのことを考えるヒントとしてこそ、本書の存在意義がある。

最後に、本書最終章「心の垣根」の、『東海道中膝栗毛』に見られる「明るいニヒリズム」を参照しながら述べられる箇所を引用しておきたい。

「しかしなお今日のわれわれは、この物語のユーモアに不気味なもの、何か胸を悪くするようなものを感じる。それはわれわれがおのれという存在、したがって他者をも含むわれわれという存在に、個としてのたしかな証明を求めるようになったから、換言すれば西欧近代のヒューマニズムの洗礼を受けたからである。むろん今日このヒューマニズムは、世界を固定化してきた価値観として十字砲火を浴びつつある。にもかかわらず、われわれは生きるという感覚において、ヒューマニズム以前へ引き返すことは出来ない。われわれは弥次郎兵衛・喜多八のように生きることは出来ないし、またそう生きたいとも願わないだろう。
「おのれという存在に確かな個を感じるというのは、心の垣根が高くなるということだった。(中略)・・・エドウィン・アーノルドのように、日本の庶民世界ののどかさ気楽さにぞっこん惚れこんだ人は、西欧的な心の垣根の高さに疲れた人だった。しかし、心の垣根は人を疲れさせるだけではなかった。それが高いということは、個であることによって、感情と思考と表現を、人間の能力に許される限度まで深め飛躍させうることだった。オールコックやブスケは、そういう個の世界が可能ならしめる精神的展開がこの国には欠けていると感じたのである。」(本書575~576ページ)

本書は、ある意味とても残酷な本だともいえよう。
過ぎ去った時は、二度と戻らないのである。

2009年11月3日火曜日

【その他雑記】 マイケル・ジャクソンに関して思うこと

マイケルの例の映画『This Is It』が好評である。

生前のマイケルに興味の無かった人々が、この映画を観てマイケルの偉大さを初めて知った、という。

ひょっとすると、僕たちは今、「ポップスター」が「神」になる過程に立ち会っているのかもしれない。

※※※

僕たちは、マイケルの死とほぼ時を同じくして、忌野清志郎というもうひとりの偉大な「ポップスター」を失っている。

しかし、清志郎という「ポップスター」は、その死を経ても、決して「神」になることはないと思う。清志郎の場合は、ぼくたちの記憶の中に、いつまでも生前の姿のままで残り続けるだろう。

これに対して、マイケル・ジャクソンという「ポップスター」の場合は、その死後、生前とは明らかに違う姿、すなわち「神」になってぼくたちの前に再臨しようとしているように見える。

※※※

もしかすると、清志郎は、完全な「ポップスター」にはなりきれない存在だったのかもしれない。
「ポップスター」である前に、ひとりのブルース・シンガーだった。
彼は、ブルースを手放さなかった。それなのに「ポップスター」でもあり続けた。その両面性に、清志郎の壮絶さがあるのかもしれない。

対して、生前のマイケルは、泣く子も黙る完全な「ポップスター」だった。
マイケルは、あえてブルースに背を向けた。
その姿勢が、逆説的にマイケル固有のブルースでもあったのだが・・・

※※※

こんな比喩はどうだろう。
地べたを這い続けた清志郎と、中空を漂い続けたマイケル。

しかし、二人とも、一貫して「愛」を歌い続けた。

この世界に生きながら、「愛」を歌うこと。
そこには、ただならぬ軋轢が生まれる。

その軋轢こそが、「ポップ」なのではないか。
それは、ただのラブ&ピースなんかじゃ決してない。

※※※

マイケルは死んだ。
彼はもう、「愛」を歌うことの軋轢に苦しまなくていい。
純粋に、彼が歌う「愛」だけが、世界に広がっていく。

ただ、それはもはや、「ポップ」ではない。
もしかすると、「神」というのは、「ポップ」の剥製なのかもしれない。

2009年10月29日木曜日

【映画総論】 映画館に行かないのもいいもんですよ

■映画「館」料金は下がらない

映画料金をこれ以上下げることは出来ない、というのは動かしがたい現実なのだろう。

1800円でもぎりぎりのラインらしい。また、値下げ即集客増というわけでもないらしい。)

そうすると、

映画「館」で映画を見るためには、現在の水準の対価を支払わなければならない。

という事態は、この先も受け入れていくほかないのだろう。

■「館」は高級品、と割り切ったほうがいい

とはいえ、客からすれば割高感がある、というのも動かしがたい事実である。

この開きは、この先埋まることはないだろう。

だから、そこを埋めようとしても仕方ない。
 「映画料金高え」「うっせ、仕方ねんだよ」式の論争は、不毛でしかない。(いや、ほんと反省してます・・・

・・・なら、いっそのこと、こういう認識で割り切ったほうがいいんじゃないか?

「館」に行くのは、いまや「たまの贅沢」なのである。

「たまの贅沢」なのだから、現在の料金だって妥当(むしろ安いくらい)なのだ。
「たまの贅沢」を日常的にしようとするから、割高に感じるのだ。

※そう考えると、たとえばTV局出資の映画というのは、TVを使って全国的な祭りを仕掛け、視聴者に「その祭りに参加する」という「たまの贅沢」を提供しているものであるから、いまの「館」のあり方に即したまっとうな商売なのだろうなあ・・・。

■「映画は映画館で」は逆宣伝じゃねえの?

で、思うのだけれど、

「館」に行くことは、いまや「たまの贅沢」であって、これを日常的に継続しようとすると生活のどこかに無理が生じる。
(※割引を利用すればそんなことないよ、と言われるかもしれないが、割引をいちいちチェックすること自体「無理してる」んじゃないでしょうか?? これを「無理」と思わない方は、それだけで映画愛の深い方といえるのでありまして・・・) ←と、「館」に行ってたころの自分を褒めてみる

なのに、「館」で見ないと映画じゃない、なんてことを言い始めると・・・

「映画」そのものが「たまの贅沢」になってしまう。
「映画」を日常的に楽しむことが、ますます遠ざかってしまう。


日本で日常的に映画を楽しむには、レンタル屋を使うのが現実的な選択だ。
そこを無視して、無邪気に「映画は映画館で見ないと~」なんて吹聴して回るのは、映画を日常的に楽しむこと自体を否定するに等しい。
ますます映画から人を遠ざけてしまう。

・・・これって、「館」の中の人からしても、決して歓迎すべき事態ではないのでは?

■だからDVDで見てればよかとですよ

どうやら、「館」にはテーマパーク的な興奮が求められている模様
だったら、「館」はそういった作品に特化して商売すればいいんじゃないでしょうか。

ただ、「映画」そのものが好きな人間としては、そうじゃない作品も見たい。

で、そういう非テーマパーク的作品に関しては、DVDで見てればいいじゃないかと。

幸い、アメリカの「館」はテーマパークではない模様
したがって、レンタル屋には、アメリカで作られた「非テーマパーク的作品」がたんまりある。

(あと、レンタル屋には、日本映画が本当の意味で大衆娯楽だった時代(「館」がテーマパークでなくてよかった時代)の作品もたくさんありますしね・・・)

それを見てればすむ話じゃないかと。
「館」で見なくても、映画は映画なのだから・・・

 映画は、「館」の外でも見れます。
(厳密には、日本の「館」がつぶれてしまうと、国産映画の新作は「館」の外でも見れないことになってしまうが、ぼくはべつにそれで構わないと思っているw

あとのことは、「館」の中の人にまかせることにしましょう・・・

※あ。 「館」の中の人たちは、いっそのこと商売をブルジョア向けに割り切ってしまえばいいんじゃないですか? 「たまの贅沢」どころじゃなくて。 料金も上げられていいこと尽くめですよ。 DVDしか見れない俺みたいな貧乏人は無視してさ(笑)

2009年10月25日日曜日

【映画総論】 驚愕・・・

こちらのブログさんの記事は、「映画の本質」をきわめて的確に表現しているのではないか?

凡百の映画評論家が束になってもかなわない。

・・・ぼくは本気で言っているのだ。

【映画各論】 『96時間』が何故ヒットしたのか分からない(苦笑) 【ネタバレ注意】



■この映画のつまらないところ・・・「父と娘の緊張関係が中途半端」

ぼくはこの映画を見て、正直つまらないと思った。

で、その後色々と考えてみると、ぼくがこの映画をつまらないと思った理由を、「ある一点」に集約できることがわかった。

それは、「父が娘のアメリカ旅行を許す・許さない」のくだりである。

①父は当初、娘のアメリカ行きを許さなかった。アメリカ行きを拒まれた娘は、涙を浮かべて父を罵る。それでも父は許さない。
②しかしその後、父は悩んだ挙句、条件付きで娘のアメリカ行きを許すことにした。喜ぶ娘は満面の笑みを浮かべて父に抱きつく。

・・・なんでそうカンタンに仲直りするんだ?(苦笑)

■『96時間』という映画の中にあっては、世界は「父が娘に必要とされる/されない」のいずれかでしかない

この映画における物語世界。
それは、「父が娘に必要とされる/されない」の二項対立で構成される世界である。
この映画の世界にあっては、リーアム・ニーソンが娘に必要とされるか否かだけがすべてなのである。

そして、毎度申し上げているように、映画のような「直線タイプの物語」にあっては、「その物語世界の変容をいかに説得力をもって描くか」によって、作品の価値が決まる。ぼくはそう考えている。(こちらの記事をご参照ください)

その考え方でいくと、この『96時間』という映画の場合は、「娘に必要とされない世界」が「娘に必要とされる世界」に変容していく様子を描くことになる。

■にもかかわらず「娘に必要とされない世界」の描き方が中途半端

なのに、映画全編を通して、父はそれほど娘に嫌われていない・・・(苦笑)
最初から、娘は、父のことがわりと好きなのである。

そういうことでは、リーアム・ニーソンがいくら人身売買組織を痛めつけたところで、物語世界はさほど変容しない。
リーアム・ニーソンの好演にもかかわらず、見ているこちらの感情はさほど動かされない。

■そこでぼくから提案です

せめて、娘がアメリカに旅立つ際、父娘に仲直りさせずにおいた方がよかったのではないか?

娘に徹底的に嫌われたリーアム・ニーソンが、「娘に必要とされない世界」のどん底で絶望する。
そこへ、娘が人身売買組織にさらわれる。
「・・・俺の出番だ!!」
とたんに生き生きし始めるリーアム・ニーソン。
彼は「娘に必要とされる世界」で無敵の活躍を見せる・・・

このように、「物語世界の変容」を鮮明にしておけば、リーアム・ニーソンのスティーブン・セガールばりの無敵っぷりに、それなりのカタルシスが伴ったのではないか?

■しかし現実にはこの作品はヒットしたのです

・・・とはいえ、実際にはこの作品はヒットした。
いくらぼくがこの作品のカタルシス不足を追及したところで、現実には多くの観客に好評だったのである。

多くの観客は、この作品にしっかりカタルシスを感じたのである。

ぼくのツボがずれてるのかなぁ・・・

2009年10月23日金曜日

【映画総論】 あらゆる場所に「物語」が・・・

加藤夏希の件のいったい何が「綺麗」か?

ぼくは前回のエントリーで、加藤夏希をめぐる「物語」の終結を指して、「あまりに綺麗だ」と評した。
これからその真意を詳しく述べてみたい。

■「オクテな美女」の物語

まず、確認しておきたいのは、これまで我々が加藤夏希に対して抱いてきたイメージである。
それは、「あまり男性経験がない」というものだ。
彼女自身、TVにて恋愛が得意でない旨の発言をしているし、アニメオタクであると公言してはばからないことからすると、自らそうした「オクテキャラ」のイメージを広めようとしていた節もある。
それが真実か否かはどうでもよい。
我々はTV画面を通して、「加藤夏希は男性経験に乏しい」という「物語世界」を共有していた。大事なのはそれだけである。
(※参考記事:「ロックンロールはウソの共有」by『お笑い芸人のちょっとヒヒ話』さん

次に問題となるのが、あるラジオ番組における「包茎全肯定発言」だ。
この発言は、先に見た「加藤夏希は男性経験に乏しい」という「物語世界」における、新たな構成要素となった。
すなわち、「加藤夏希の数少ない男性経験の中には、包茎男子しか登場しない。」という新たなエピソードを我々に提供してくれたのである。

この時点では、主人公はまだ加藤夏希である。
加藤夏希という「オクテな美女」の物語である。

■それが「包茎男」の物語へと変容した

そこへ今回、新たな登場人物が現れた。
「加藤夏希の元カレであり元マネージャーである男」だ。

彼はこの「物語」のすべてをさらっていった。
彼は、加藤夏希をこの「物語」の主人公の座から引きずり降ろした。

なぜなら、彼の登場により、この物語はもはや加藤夏希の物語ではなくなってしまったからだ。

この「オクテな美女の物語」は、彼の登場によって、「表舞台に一切顔を出していないにもかかわらず包茎であることがばれてしまったオモシロ男の物語」へとすっかり変容してしまったのだ。

彼は、ただ登場するだけで、それまで加藤夏希を中心にまわっていた物語を、すっかり「自分の物語」に変えてしまった。
そのあまりにドラスティックな「物語世界の変化」を、ぼくはとても綺麗だと感じたのである。

■直線タイプの物語の「説得力」

以前、「直線タイプの物語」の価値は、「その物語世界の変容をいかに説得力をもって描くか」にかかっている、という話をした。(※「直線タイプ」ということばの意味なんかも含めて、こちらの記事こちらの記事ご参照くださいm(_ _)m)

その考え方でいくと、今回の加藤夏希をめぐる物語世界の激変は、その「隙のなさ」(すべてのピースが一瞬にして包茎男の方へ向きを変える、という意味での「隙のなさ」)によって、妙な説得力を獲得したといえるだろう。

そして、まさにその「妙な説得力」によって、加藤夏希をめぐる物語は「価値のある物語」(=おもしろい話)として幕を閉じることができたといえるだろう。

■「物語」は映画館の中だけにあるのではない

このように、「物語」は様々な場所に潜んでいて、ふとしたきっかけでその姿を現す。
このことは、ネットによって物語環境がユビキタス化の一途をたどっている現在において、きわめて重要な事実である。

物語鑑賞者は、むしろ映画館の外にこそ眼を向けなければならないのだ。