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2009年12月22日火曜日

【その他雑記】 似て蝶


G線上のアリア




自慰専用の溜まり場

2009年12月19日土曜日

【その他雑記】 対照的なふたつの『今夜はブギーバック』



ソウルセットとハルカリの『今夜はブギーバック』。

そういう90年代懐古趣味はもういいよ、なんて思っていたのだけど・・・

実際に曲を聴いてみると、めちゃくちゃイイじゃないか!

・・・そんなわけでこの曲、もう今年も終わろうというのに、いまだ飽きることなく聴き続けている。

何がイイって、ラップをばっさり削ったところがイイ。

ぼくの安易な考えでは、ハルカリがラップをやって俊美がボーカルをやりそうだな、なんて予想していたのだが・・・

オザケンの不在を、ハルカリで回避する。

なるほど、そっちか!と思った。

※※※








いっぽうのTHE HELLO WORKSバージョン。

こちらは対照的に、オザケンの不在に真正面から立ち向かう。

オザケンの不在を埋めるがごとく、スチャのラップが男臭くなっている。

過去から逃げずに、歩き続ける男たちの姿。








とくにANIが「コピペッ!」と言い放つ瞬間、ぼくはいつも爆笑しながら泣きそうになる。

なぜって、ぼくは過去から逃げてばかりだから・・・

2009年12月10日木曜日

【その他雑記】 知らないおじさんの顔

「月曜JUNK・伊集院光深夜の馬鹿力」(TBSラジオ)に、空脳アワーというコーナーがある。
俺の脳みそ、どうかしてる!という体験を募集するコーナーだ。

随分前のことだが、そのコーナーで衝撃的な投稿が紹介されていた。

※※※

投稿者は、人の顔を思い出すのがどうも苦手だという。
名前と顔が、頭の中でなかなかリンクしてくれない。

苦心の末、なんとか「自分なりの思い出し方」を編み出したそうだ。

まず最初に、特定の人物の顔を思い浮かべる。
その人物の顔をベースにして、「ああでもない、こうでもない」とパーツを変化させる。
そうやって、思い出そうとしている人の顔に近づけていく。

つまり、投稿者は、人の顔を思い出そうとするたび、「ベースの顔」をまず頭に思い浮かべるのである。
こうしたことを繰り返してきたせいで、「ベースの顔」の記憶は、投稿者の脳にかなり鮮明に刻み込まれている。

その顔は、あるおじさんの顔なのだそうだ。

しかし、投稿者は、そのおじさんとまったく面識がないのだという。

※※※

・・・うーん、なんなんだろう。

あらゆる感想を拒む怪エピソードである。

2009年12月8日火曜日

【その他雑記】 お手上げ

藤永茂氏のブログ『私の闇の奥』より引用。
 なぜ私のような素人の予想が当って、有力メディアの有名論客の論説がもたもたと不明瞭なのか? それは、彼等の属する主流マスコミ機構が、始めから、真 実から“偏向”しているからであり、私の予想が当るのは、主要偏向メディアより信頼の置けそうな、そして、一般には“偏向論客”と看做されている人々の発 言に、注意深く耳を傾けるからです。(2009・12・02
 ・・・なにがほんとうなのか、俺なんかには全くわからないよ。

2009年12月6日日曜日

【その他雑記】 出世する男はここが違う

「安住伸一郎の日曜天国」(TBSラジオ)のポッドキャストを聴いていたら、すごい回を見つけた。

「俺の塩」という回である。

※※※

安住アナの楽しみは、入浴しながらの読書だそうだ。

時間をかけて湯船に浸かる。
そのため、手元の洗面器(※読書台の代わり)には、結構な量の汗が滴ることになる。

それを見た安住アナは考えた。

「この汗を集めて、塩が採れないだろうか?」

※※※

・・・安住アナの挑戦が始まった。

製塩に関する文献を調べ、採取すべき汗の量を推理する。

どうやら、相当な量の汗が必要らしい。
かなり高いハードルだ。

これをクリアするため、安住アナは苛酷な長時間入浴を敢行する。
ただでさえ多忙だから、自由時間のほとんどを入浴にあてることになる。

それだけでも凄いのだが、安住アナはさらにその先を行く。

なんと、自らを「食品メーカー兼食材」になぞらえ、「食の安全」をも追求し始めるのだ。

※※※

出世する男とは、かくも凄まじい執念を抱えているものなのか・・・

とにかく、ポッドキャストを直接聴いて、安住アナの狂気を体感して頂きたい。

安住さん、どうかしてるよ!(いい意味で)

【その他雑記】 恋愛感情の正体は「免疫系のザワザワ」?

きのうの「あべちゃんトシ坊・こりない二人」(RKBラジオ)のひとコマ。

この日の番組のテーマは、「別れる」。
離婚に関して、リスナーのメッセージを紹介しながら、各界の専門家に電話をつないで話を聞いていく、という構成。
パーソナリティの二人は、いずれもバツイチ。そのせいか、いつにもましてディープな話が続く(笑)。

中でも、製薬会社(だったかな?)の研究員との電話で出てきた話が、とびきり面白かった。

なんでも、恋愛感情の正体は、人体の免疫系における「異物に対する反応」なのだそうだ・・・!

※※※

人体は、生きていくのに必要な物質を、外界から取り入れる。
ただ、その物質は、人体からすると「異物」である。
取り入れるべき「異物」と、排除すべき「異物」を選別しなければならない。
そのために働くのが免疫系だ。

で、このように外界から「異物」を取り入れるというのは、実は恋愛についても同じことなのだそうだ。

つまり、恋愛というものを生物学的な観点から表現すると、次のようにいえる。

〈自分と異なる生き物(=恋人)の身体から分泌される物質(フェロモンやら、体液やら・・・)を、それが「異物」であるにもかかわらず、本能的に欲すること〉

そう。恋愛は、「免疫系の活動」として説明することが出来るのだ。

そして、恋人という「異物」を取り入れるべきか排除すべきか、免疫系が「ザワザワ」している状態。
それこそが、あの何ともいえず「ザワザワ」する恋愛感情の正体なんだそうだ。

※※※

さらに面白いのが、恋愛感情が冷めていく理由も、「免疫系」という観点から説明できるらしいのだ。

免疫系を司るのは、「骨髄液」なのだという。
そして、この「骨髄液」は、7年サイクルですっかり入れ替わってしまうのだという。

このように骨髄液が入れ替わるというのは、一体どういうことか。
それは、免疫系がすっかり「更新」されてしまうということらしい。

たとえば、恋人とめでたく結婚し、付き合い始めてから7年が経過したとする。
7年が経過したということは、骨髄液がすっかり入れ替わり、免疫系が「更新」されたということだ。

それはつまり、こういうことだ。

付き合い始めた当初の免疫系は、恋人が「取り入れてもよい異物」なのか「排除すべき異物」なのか迷って、「ザワザワ」していた。
しかし、7年が経過して「更新」された免疫系は、恋人を完全に「取り入れてもよい異物」と判断するようになる。

どんなにザワザワしていた免疫系も、7年が経過すると、すっかり落ち着いてしまう。
言い換えると、「免疫系のザワザワ」であるところの恋愛感情は、7年が経過することによって、ものの見事に冷め切ってしまうのである。

それどころか、あの頃は「免疫系のザワザワ」のおかげで「魅力的な異物」に見えていた恋人が、7年たつと「ただの異物」でしかなくなってしまう・・・!!(泣)

※※※

・・・まあ、そうならないように、結婚後は精神的な結びつきを大切にしましょうね、というオチだったのだけれど。

恋愛と結婚は、科学的に見てもまったくの別物である。というお話でした。

2009年12月4日金曜日

【その他雑記】 矢沢・長渕・尾崎

きのうの「木曜JUNK・アンタッチャブルのシカゴマンゴ」(TBSラジオ)でのひとコマ。

長渕剛のコンサートに行った、という話をする柴田。
対して、長渕を斜めから見ている山崎は、要所要所でからかいに入る。

そんな山崎に対して、いかに長渕が素晴らしいかを語る柴田。こんな良い曲があるん

だぞと歌い始める。
しかし、ファンを自称する割には、歌詞やメロディがすんなり出てこない。

すると山崎が、「ああ、それってこういう曲でしょ」と難なく歌い上げる。

「なんでお前のほうが詳しいんだよ(笑)」と柴田。
「俺だってぜんぜん聴いてないわけじゃないからね」と山崎。

「そうね。長渕は男だったら一度は通る道だからね」と柴田。
それに対する山崎の返しがおもしろかった。

「うん。そしてやがて離れていく、っていうね(笑)」

※※※

そういえば、リリー・フランキーがこんなことを言っているのを読んだことがある。

「矢沢・長渕・尾崎を素直に受け入れることが出来るようになったら、男は楽になれる」

※※※

矢沢・長渕・尾崎。

かつてナンシー関は、「日本人はヤンキーとファンシーの呪縛から逃れられない」と喝破

した。
ここでいう「ヤンキー」的なるものを一身に背負っているのが、他でもない、「矢沢・長渕

・尾崎」だ。

日本男子は、誰も「矢沢・長渕・尾崎」を避けては通れない。
「男だったら一度は通る道」なのは確かだ。

しかし、事態はそう簡単ではない。
なぜなら、多くの者がそこから「やがて離れていく」ということも、また事実だからだ。

「矢沢・長渕・尾崎」のファンの中には、初めからずっと同じテンションでファンであり続け

ているひとたちもいるだろう。
しかし、「一度離れて、また戻ってきたひと」というのも、かなりの割合でいるのだと思う。

・・・「矢沢・長渕・尾崎」をめぐって、行ったり来たりを繰り返す。
それが、日本男子の自我のあり方の、偽らざる実態なのではないだろうか?

2009年12月3日木曜日

【その他雑記】 おぎやはぎのおそろしさ

この間、「火曜JUNK ZERO・おぎやはぎのめがねびいき」(TBSラジオ)を聴いていたときのこと。

あるある系のコーナーで、こんなネタが紹介されていた。

〈芸人がパーソナリティのラジオ番組では、「うちの番組のリスナーはレベルが高い」ということをよく言う〉

これに対して、おぎやはぎは「そうそうそう、よく言うよね」「あれ何なんだろうね、ははは」と軽く流していた。

これを聴いて、ぼくは思わず唸ってしまった。

※※※

深夜ラジオを支えるものは、ある種のコミュニティ感覚だと思う。

なんというか、「バーチャルな身内感覚」とでもいえばいいのだろうか。
うまくいっている深夜ラジオには必ずその感覚がある。

テレビではあまり語らない本音を電波に乗せるパーソナリティ。
それに共感したリスナーは、番組に強い思い入れを抱くようになる。

そこには、テレビとは違う手触りの、深夜ラジオ独特の「リアル」がある。

とはいえ、もちろん面と向かって直接話しているわけではない以上、それを正真正銘の「リアル」ということはできない。
そこには、番組を成立させるための「ウソ」が、多少なりとも含まれている。

パーソナリティは、何の面識も無い不特定多数のリスナーに対して、さも友達に話しかけるような口調でトークを展開させる。
それは、意地悪な言い方をするなら、「身内感覚」の捏造だ。

・・・べつに、ラジオの偽善をことさらに暴きたてようというのではない。
捏造といったって、パーソナリティは自分の身を削るようなトークをしているのだ。
そこに「リアル」があるのは間違いない。
ただ、それでも「100%のリアル」というのはあり得ないのだろう、ということだ。

もちろん、ラジオに限らず、あらゆる人間関係において、「100%のリアル」はあり得ない。
ほんの少し「ウソ」を混ぜることで、はじめて人間関係は動き出す。

その「ウソ」というのが、深夜ラジオの場合には、「捏造された身内感覚」だということになるのだろう。
そういう話だ。

※※※

で、その「身内感覚の捏造」がもっともよく露見するのは、パーソナリティが「いや~、うちのリスナーはやっぱりレベル高いね!!」とうれしそうに言う瞬間なのである。

もちろん、パーソナリティとしても、まるっきりウソを言っているわけではないだろう。
事実、リスナーの投稿のレベルは高いのだろう。

とはいえ、何の面識もない不特定多数の人間を、こうして「うちのリスナー」と身内であるかのように呼ぶことには、ほんのちょっぴりだけれど、しかし決定的な「ウソ」が混じっている。

それは、深夜ラジオの「タブー」といってもいいかもしれない。

※※※

そう考えていくと、最初に紹介したおぎやはぎの番組の一幕が、とてもおそろしいタブー破りに思えてくる。

そしてもっとおそろしいのは、このタブー破りを、おぎやはぎは「単なるあるあるネタ」として軽く消化したということだ。

※※※

おぎやはぎには、いったいどんな景色が見えているのだろうか?

2009年11月21日土曜日

【その他雑記】 電気グルーヴ『Upside Down』PV directed by 田中秀幸



■これを閉塞と見るか?解放と見るか?

自室に設置したwebカメラで、自らのダンスを撮影する女の子たち。みんな、おなじ曲で踊っている。

ともすると「ネット空間に自閉する若者」「グローバル化社会における画一化」なんていう文脈でカンタンにまとめられてしまいそうな映像だ。

しかし、当の女の子たちの表情はとても自然だ。

みんな、気負うことなく自分のダンスを楽しんでいる。
ゆるく踊る子もいれば、激しく踊る子もいる。

ひとりひとり異なるグルーヴが、次々と切り替わっていく。
そこには、「人間の肉体の差異」を素朴に肯定するかのような雰囲気が漂ってくる。

この雰囲気が、たまたま再読していた『ジオラマ論』(by伊藤俊治)に収録してある解説(by椹木野衣)の一節とリンクする気がしたので、以下に引用する。

今後、「電子の森」がいっそうの発展を迎えることが火を見るよりも明らかな以上、私たちの身体の所在はますますうつろなものとなっていくにちがいない。あらかじめ保証された自然の所産としての身体などは、そのような電子の森にあっては、真っ先にシミュレートされ、現実の座を失ってしまうだろう。肝心なのは、電子の森の模倣能力や計算能力と限りなく相似であるにもかかわらず、最後の一線においてしか見えてこない、模倣も計算もまったく不可能な特異点を、しかもあくまでなまなましい身体として峻別することができるか否かということだろう。
(ちくま学芸文庫版p382)

この文章は、1996年時点のものである。
ここでいう「電子の森」とは、当時進行中だったCGの大発展を見越しての表現である。
2009年現在の、CGにも飽きてしまったぼくたちとは違う視点で書かれた文章であることに留意しなければならない。

つまり、現在のぼくたちは、ここでいう「電子の森」にすっかり包囲され尽くしており、しかもそれが完全な日常と化している状況にある。
(それはすなわち、自らの姿をwebカメラで撮影してネットにアップすることが当たり前となっている状況である。1996年当時における、CGの精密度を映像フレーム内でうんぬんするような次元など、とうに通り越している。)

そんな中で、このPVがとてもさりげなく、しかし確実に、「模倣も計算もまったく不可能な特異点」を楽しげに提示して見せたことは、ものすごく重要な事件だと思うのだが、どうだろう。

2009年11月9日月曜日

【その他雑記】 渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)

本書の著者である渡辺京二氏は、ぼくにとっては「予備校のセンセイ」である。
かつてぼくが浪人生だった頃、通っていた予備校で現代国語の講師をしていたのが、渡辺氏だった。
当時、渡辺氏は69歳。血色のよい白髪の好々爺、という印象だった。
結構ミモフタもないことを言って、教室の笑いを取っていた覚えがある。
「満員電車に乗ってね、すぐ隣に若い女性がいたりするとさ。もちろんそんなことはしないよ。絶対にしないのだけれど、・・・でも、触りたくなるのは確かなんだよなあ」
もちろん何の脈絡もなくこんな話をしたわけではなくて、渡辺氏は「実感」というものの大切さを冗談交じりに語っていたのだ。

話は飛ぶが、日本において「思想」や「哲学」といった言葉は、「実感を伴わない言葉」と同義なのではないか。そう思うことがある。
要は、「ホンネとタテマエ」といった、よくある日本人論である。
日本において、なにか「言論」を発信しようと思うと、それはどうしても「実感」から乖離したものになってしまう。
なぜかはよく分からないが、どうしても「そうなってしまう」のである。

渡辺氏が日本の言論界から距離をおいているのは、どうもそのあたりに理由がある気がする。

本書において渡辺氏がまとめ上げた外国人の手記は、いずれも彼らの「実感」をつづったものだ。
日本において「実感」は、「言論」として扱われない。
それでも渡辺氏は、そんなことはお構いなしに、「彼らがそういう「実感」を持ったのは確かなんだからさ」と、この大著をまとめ上げた。
こうして「実感を伴った言葉」によって編み上げられた本書は、読む者を強くひきつける。
その言葉の魅力は、前述した渡辺氏の冗談のチャーミングさに通ずるように思う。
事実、ぼくは本書を読みながら、何度となく笑った。

ただ、注意しなければならないのは、本書において語られる「実感」とは、とっくに滅んでしまった文明によってもたらされた「実感」だ、ということである。
つまり、その「実感」には、ぼくたちはどうやったって手が届かないのだ。
もっとも著者である渡辺氏がそれを自覚していないはずなどなく、そのことは本書のタイトルに「逝きし」という完了形の語句が冠せられていることからして自明である。

本書に描かれた古き日本を、これからの日本のあるべき姿の参考にする・・・そんな発想は、本書が執筆された意図とは真逆のところにあるというべきだろう。

「私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、一つの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんでくるのだと私はいいたい。そしてさらに、我々の近代の意味は、そのような文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明かせないだろうといいたい。」(本書65ページ)

すでに滅んでしまった徳川文明は、本書に挙げられた数々の「実感」をもたらした。
では、ぼくたちがいま現在生きているこの文明は、いったいいかなる「実感」をもたらしているのか?
そのことを考えるヒントとしてこそ、本書の存在意義がある。

最後に、本書最終章「心の垣根」の、『東海道中膝栗毛』に見られる「明るいニヒリズム」を参照しながら述べられる箇所を引用しておきたい。

「しかしなお今日のわれわれは、この物語のユーモアに不気味なもの、何か胸を悪くするようなものを感じる。それはわれわれがおのれという存在、したがって他者をも含むわれわれという存在に、個としてのたしかな証明を求めるようになったから、換言すれば西欧近代のヒューマニズムの洗礼を受けたからである。むろん今日このヒューマニズムは、世界を固定化してきた価値観として十字砲火を浴びつつある。にもかかわらず、われわれは生きるという感覚において、ヒューマニズム以前へ引き返すことは出来ない。われわれは弥次郎兵衛・喜多八のように生きることは出来ないし、またそう生きたいとも願わないだろう。
「おのれという存在に確かな個を感じるというのは、心の垣根が高くなるということだった。(中略)・・・エドウィン・アーノルドのように、日本の庶民世界ののどかさ気楽さにぞっこん惚れこんだ人は、西欧的な心の垣根の高さに疲れた人だった。しかし、心の垣根は人を疲れさせるだけではなかった。それが高いということは、個であることによって、感情と思考と表現を、人間の能力に許される限度まで深め飛躍させうることだった。オールコックやブスケは、そういう個の世界が可能ならしめる精神的展開がこの国には欠けていると感じたのである。」(本書575~576ページ)

本書は、ある意味とても残酷な本だともいえよう。
過ぎ去った時は、二度と戻らないのである。

2009年11月3日火曜日

【その他雑記】 マイケル・ジャクソンに関して思うこと

マイケルの例の映画『This Is It』が好評である。

生前のマイケルに興味の無かった人々が、この映画を観てマイケルの偉大さを初めて知った、という。

ひょっとすると、僕たちは今、「ポップスター」が「神」になる過程に立ち会っているのかもしれない。

※※※

僕たちは、マイケルの死とほぼ時を同じくして、忌野清志郎というもうひとりの偉大な「ポップスター」を失っている。

しかし、清志郎という「ポップスター」は、その死を経ても、決して「神」になることはないと思う。清志郎の場合は、ぼくたちの記憶の中に、いつまでも生前の姿のままで残り続けるだろう。

これに対して、マイケル・ジャクソンという「ポップスター」の場合は、その死後、生前とは明らかに違う姿、すなわち「神」になってぼくたちの前に再臨しようとしているように見える。

※※※

もしかすると、清志郎は、完全な「ポップスター」にはなりきれない存在だったのかもしれない。
「ポップスター」である前に、ひとりのブルース・シンガーだった。
彼は、ブルースを手放さなかった。それなのに「ポップスター」でもあり続けた。その両面性に、清志郎の壮絶さがあるのかもしれない。

対して、生前のマイケルは、泣く子も黙る完全な「ポップスター」だった。
マイケルは、あえてブルースに背を向けた。
その姿勢が、逆説的にマイケル固有のブルースでもあったのだが・・・

※※※

こんな比喩はどうだろう。
地べたを這い続けた清志郎と、中空を漂い続けたマイケル。

しかし、二人とも、一貫して「愛」を歌い続けた。

この世界に生きながら、「愛」を歌うこと。
そこには、ただならぬ軋轢が生まれる。

その軋轢こそが、「ポップ」なのではないか。
それは、ただのラブ&ピースなんかじゃ決してない。

※※※

マイケルは死んだ。
彼はもう、「愛」を歌うことの軋轢に苦しまなくていい。
純粋に、彼が歌う「愛」だけが、世界に広がっていく。

ただ、それはもはや、「ポップ」ではない。
もしかすると、「神」というのは、「ポップ」の剥製なのかもしれない。

2009年10月23日金曜日

【その他雑記】 天網恢恢疎にして漏らさず

加藤夏希の件はもちろん笑い事ではなく、彼女には自らの権利を死守して欲しいと思うのだが、

それにしても彼女の「包茎に関する発言」がこのような結末を迎えるとは。。。

ひとつの「物語」がまた、こうして幕を閉じた。

そのあまりの綺麗さに、ぼくはしばし呆然としてしまった。

2009年10月22日木曜日

【その他雑記】 ナタリーから引用

http://natalie.mu/news/show/id/21950

クリスマスシーズンに向けて活躍するコンピレーションアルバム「for winter music Lovers ~テクノポップ・クリスマス」「for winter music Lovers ~ノン・ヴォーカル・クリスマス」が11月11日に2作同時リリースされる。
「テクノポップ・クリスマス」は歴代テクノポップ系アーティストによるウインターソングを集めたコンピ。1976年の未CD化アルバム「シンセサイザーに よる子供のための楽しいクリスマス」に収められた、シンセサイザーの合成音による猫、犬、鳥の鳴き声がメロディを歌う「ジングル・ベル」で幕を開け、細野 晴臣からAira Mitsukiまでの新旧テクノポップアーティストの楽曲が収められる。
そして「ノン・ヴォーカル・クリスマス」は、クリスマスの風景を演出するインスト曲を揃えたコンピ。こちらは音楽ライターの熊谷美広による幅広い選曲で、国内外のクリスマスをテーマにしたフュージョン&クロスオーバー系インストが収録される。

「for winter music Lovers ~テクノポップ・クリスマス」収録曲

01.ジングル・ベル / ザ・エレクトロ・サンタクロース
02.戦場のメリークリスマス / Aira Mitsuki
03.降誕節(賛美歌106番「荒野の果てに」) / 戸川純
04.I wish you a Merry Christmas / 安西史孝
05.東京クリスマス / 電気グルーヴ
06.Christmas in the air / PSY・S
07.ドアを開ければ…… / 高橋幸宏
08.EXIST / SOFT BALLET
09.アフリカのクリスマス / 平沢進 with 島崎和歌子
10.戦場のメリークリスマス / ロジック・システム
11.絵本の中のクリスマス / 野宮真貴
12.スプーン一杯のクリスマス / ムーンライダーズ
13.25 Dec. 1983 / 細野晴臣
14.I wish it could be Christmas everyday / 鈴木さえ子

「for winter music Lovers ~ノン・ヴォーカル・クリスマス」収録曲

01. DEPAPEPE / シュプール
02. グローヴァー・ワシントンJR. / THE CHRISTMAS SONG
03. ケニー・G / LET IT SNOW! LET IT SNOW! LET IT SNOW!
04. T-SQUARE / YOUR CHRISTMAS
05. ラリー・カールトン / WINTER WONDERLAND
06. LYNX / MERRY CHRISTMAS Mr.LAWRENCE
07. 安藤まさひろ&みくりや裕二 / HAPPY CHRISTMAS
08. クリス・ボッティ / I'LL BE HOME FOR CHRISTMAS
09. GONTITI / GREEN CHRISTMAS
10. スティーヴ・ヴァイ / CHRISTMAS TIME IS HERE
11. ピーター・ホワイト / GREENSLEEVES(What Child Is This)
12. タック・アンドレス / RUDOLPH THE RED-NOSED REINDEER
13. 渡辺貞夫 / SONHO DE NATAL(CHRISTMAS DREAM)-Instrumental Version-
14. 鳥山雄司 / AVE MARIA
15. リー・リトナー / WHITE CHRISTMAS

2009年10月18日日曜日

【その他雑記】 すべる話

youtubeで、『バナナマン日村のすべる話』の動画を鑑賞。

涙が出るくらい笑ったのだが、なにがそんなに面白いのかときかれると、どうも説明に窮する。

ただ、たしかなことがひとつある。
本家の『すべらない話』は、話し終わった直後に笑いが来る。
これに対して、『すべる話』の場合は、話し終わった後しばらく「間」があって、その後に笑いが来る。

この「間」が死ぬほど面白いのは、いったいどういうわけなんだろう。

しかもその面白さは、なんだか「暖かい」のだ。
「すべる話を笑う」なんていうと、どこか批評的な冷たい笑いになりそうなものなのに・・・

まったくわからない。
だれかこの謎を解明してくれないだろうか。

2009年10月17日土曜日

【その他雑記】 それでも「生きてるだけで丸儲け」だろう?

ちょ・・・
http://mainichi.jp/select/today/news/20091017k0000e040055000c.html

ちなみに・・・
http://s01.megalodon.jp/2008-0210-2345-47/www.1101.com/suimin/samma/2008-02-06.html
さんま
あの、楽しいことを考えて、
楽しくしようとして、
ダメなときにもそうやって楽しめるって、
ものすごく大事です。
ものすごく大事で、楽です。
糸井
あああ、なるほど。
だって、ハズレもオッケーですもんね。
さんま
そう思うんですよねぇ。
それは、あの、ぼくの経験というか、
さんざん、30何年も、世間やマスコミに
叩かれたり褒められたりをくり返して、
世間というのはこう取るのか、
ということを考えているうちに、
いつの間にかそういうふうに
なってしまったのかもしれませんけど。
糸井
そういうふうに考え続けて、
いろんなものを突き詰めていって、
最後の最後にさんまさんの手元に残る
たった1枚のカードっていうと、
もう、「人生、生きてるだけで丸儲け」
というところに行きますね。
さんま
はい。
糸井
ありゃあ、すごいことばですよねえ。
さんま
いえいえ(笑)。
まあ、でも、けっきょくそこに行きますね。
もう、すべての人が、もうね、
「服一枚着た時点で勝ち」なわけですから。


2009年10月16日金曜日

【その他雑記】 反省・・・

誰も読んでいないと思って「映画業界ファック!」みたいなことを書き散らしていたら、実際に映画業界に携わっていた方からやんわりとたしなめられてしまった。
(『映画館ブログ』さんの「映画館で見るから映画なのである」とのエントリー。)

転んでもただじゃ起きないぞ、ということで『映画館ブログ』さんをしばし拝読。

「ただ単に安売りすりゃいいってもんじゃない」との御主張は、相当以前から練りに練られているもののようで、ぼくみたいないち観客にすぎない素人が反論できる隙なんてどこにもなかった。撃沈。

それどころか、「劇場ごと・作品ごと・時間ごとに、値段を変えてみるといいのでは」との御提案(「価格を下げれば売れるようになるのか」)に、当方お恥ずかしながらワクワクしてしまう始末。

そうか。ぼくは窓口料金の「1800円」よりも、むしろ「一律」のほうに噛み付きたかったのかもしれない。

ぼくが映画館に対して抱いている不満は、もちろん「値段の高さ」というのもあるのだが、それ以上に「選択肢の乏しさ」というのが大きい。
そこで「なぜこんなに選択肢が乏しくなってしまったのだろう?」と考えた結果、「①値段が高い⇒②感動やスペクタクルが必要以上に求められる⇒③上映される作品が大作志向になり画一化してしまう」という図式が思い浮かんだ。
で、この図式の始点である「①値段が高い」を是正すれば、しぜんと作品のバラエティが豊かになるのではないか? と考えたのだ。
そうすれば、たとえば日本で異常に敬遠されるコメディ映画だって、劇場でふつうに上映されるようになるのではないか? そんなことを考えたのだった。

しかし、実際に現場で働いている方又は働いておられた方からすると、
「そんなカンタンな話じゃねーよ!」
となるのは当然ですね・・・(すみませんでした)

ただ、一般の観客の視点から言わせていただくと、映画館における作品のバラエティの乏しさは、やはりちょっと我慢できない。
ここのところ、「映画好きの素人による映画業界批判」がよくなされる(ぼくもその流れに便乗してしまいました、ハイ・・・)のは、そういった苛立ちを感じている映画好きが多いからなのだと思う。
もちろん、業界を実際に知っておられる方からすると、決して気持ちのいいものではないと思います。だけど、映画好きがそういった論調になびいてしまうのは、ひとえに現状に対する苛立ちというのがあるからでして・・・(汗)

とはいえ、業界の内情を知らずに、安全な位置から業界を批判するというのは、やはりダメですね。
反省しています。

考えてみれば、映画館に対するこだわりさえ捨ててTSUTAYAに行けば、「選択肢の乏しさ」に対する不満なんて、たちどころに解消されてしまうのであった・・・(←よけい怒られるっつーに)

2009年10月10日土曜日

【その他雑記】 「アニメ主題歌差し替え」動画

  某動画サイトの「アニメ主題歌差し替えMAD」が、妙に面白いのであります。その中でも、特にぼくの琴線に触れたのは・・・


■「攻殻山田太郎」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3857065
↑ドカベンのOPアニメに、攻殻機動隊SAC(SSS)のOP曲を被せたもの。 山田太郎の体が義体に見えてくる(笑)


■「スターダスト坊主」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7221464
↑一休さんのOPアニメに、宇宙船サジタリウスのOP曲「スターダスト・ボーイズ」を被せたもの。和尚さんの頭に止まる虫の動きまでもが曲と合っている!!

 
 
  特に「スターダスト坊主」は、そのあまりに完璧なシンクロぶりに唖然としてしまいます。


  オープニングアニメのコンテ切りには、なにか一定のルールみたいなもんがあるのでしょうか? どれもそのルールに沿って作られているから、曲を入れ替えてもシンクロするのは当然。
  ・・・なんてわけはないですね(苦笑)