2010年1月28日木曜日

【映画各論】 『アバター』考① 影の主役は「窓ガラス」?!

■3D映画のメリエス

リュミエールによって発明された映画。
そこには当初、〈演出〉というものはなかった。
フィルムに封じ込めた現実が、スクリーンの上で再び動き出す。それ自体が驚くべき魔術だったのだ。

思うに、従来の3D表現というのは、こうしたリュミエール映画の段階にあったのではないか。つまりは、飛び出して見えること自体が驚きだった、という。

それをキャメロンが、『アバター』によって次なる段階に押し上げた。
その功績は、『月世界旅行』によって映画に〈演出〉を持ち込んだメリエスに比すべきものとして、映画史に残るだろう。

■3D映画における「窓ガラス演出」の可能性

『アバター』において、驚くべきは「窓ガラス」である。
窓ガラス越しのショットが、執拗に繰り返される。

基地から惑星パンドラの景色を見渡す大窓。
戦闘メカのコクピット窓。
アバター培養槽の覗き窓。
研究室の仕切り窓。

いや、窓ガラスだけではない。

酸素マスク。
PCモニターに代わる仮想ディスプレイ。
研究者の手持ちパッド。
あるいは、ジェイクが記録するビデオログの映写面。

そうした、いわば〈透明なフィルター〉が、頻繁に登場する。

これらの〈透明なフィルター〉は、第一には3Dによる奥行き感を解りやすく可視化するための手段として採用されたものだろう。

だが、それだけではないように思う。

なぜかというと、こうした〈透明なフィルター〉が登場するのは、人間側の場面だけだからだ。
ナヴィ及びアバター側の場面において、〈透明なフィルター〉は一切登場しない。

思うに、〈透明なフィルター〉越しのショットは、生身のジェイクが日々感じている、〈生彩を欠いた現実〉を表現したものなのではないか。
〈フィルター〉越しの人間達は、「そこにいるのに、いない」ような雰囲気を帯びている。
もやのかかったような、〈生彩を欠いた現実〉。

とてもおもしろい逆説的表現だと思う。
本来ならば「そこにいないのに、いる」ような感覚をもたらすはずの3D技術を用いて、あえて「そこにいるのに、いない」ような感覚を表現しているのだから。

3D映像の中で、あえて2D感を出すための「窓ガラス演出」。
この3D映画ならではの演出は、様々な心情表現の可能性を秘めたものなのではないだろうか。

■「窓ガラス」の向こう側/こちら側

その一方で、ジェイクがアバターに乗り移って訪れるナヴィの世界は、〈透明なフィルター〉などどこにもない、〈むき出しの現実〉として描かれている。

このことがよく表れているのが、ナヴィの空の戦士である。
彼らは翼竜にまたがり、その体を直接外気にさらして空を飛ぶ。人間側の兵士がコクピット窓に覆われているのとは正反対の姿である。

ジェイクは、アバターを使って〈透明なフィルター〉を突き破り、その向こうにある〈むき出しの現実〉の中に飛び込んでいくのである。

■3D映像体験を「一本の映画作品の中に結晶化させる」試み

このように〈透明なフィルター〉の向こう側に飛び込むというのは、実は、映画館のスクリーンの向こう側に飛び込む体験=3D映画体験そのもののメタファーなのではないだろうか。

『アバター』を制作するにあたってキャメロンは、おそらく世界中の誰よりも「3D映画体験の何たるか」について考察を重ねたに違いない。
その結果、3D映画体験の本質は「スクリーンの向こう側に飛び込む感覚」にある、との結論に至ったのだろう。

そうである以上は、「スクリーンの向こう側/こちら側」という感覚を、『アバター』という作品の中に、隠喩的に結晶化させる必要があった。
そのために採用された手法が、「窓ガラス演出」による〈透明なフィルター〉の表現だったのだろう。

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